明治の水道改良事業
タイトル (Title)
明治の水道改良事業
詳細 (Description)
明治21(1888)年8月、政府に「東京市区改正委員会」(内務大臣の監督下で東京の各種都市施設の整備促進を担当)が設けられます。明治21年(1888)、衛生局顧問技師バルトン他7名に上水道改良設計調査を委嘱しました。その報告を得て、明治23年(1890)7月23日、東京府は水道改良計画と設計を告示しました。
その概要は、
・玉川上水路により多摩川の水を羽村取り入れ口から千駄ヶ谷村の浄水工場に導く
・沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水
・浄水工場、給水工場の3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水するとするものでした。
この案は内閣総理大臣の認可を得、東京府知事が告示しました。その後、明治24(1891)年11月、東京府庁内に「東京市水道改良事務所」を開設し、主任技師に中島鋭治を任命(バルトンを顧問)して再検討が行われ、次のように変更されました。
・浄水工場設置場所を淀橋町
・給水工場設置場所を本郷及び芝へと変更
・和田堀、淀橋間に新水路を築造する
給水開始
工事は幾多の問題を抱え難航しましたが
明治31年(1898)12月17日、神田、日本橋方面に一部、給水を開始しました。
明治32年(1899)1月、各戸給水工事に着工しました。
◎この給水開始により、上水の樋筋は廃止されました。
明治34年(1901)6月30日、神田・玉川上水について東京市布告が出されます。
「廃止後、掛樋は取毀ち、石縁桝は、縁石を堀取の上、埋立、他は現在の儘(まま)抛棄するものとす」とするものでした。
これをもって、玉川上水の廃止とする考えもありますが、淀橋浄水場までは玉川上水が使われています。ここでは、東村山浄水場への集中、小平監視所以下の使用が停止された時をもって廃止としたいと思います。
2水道拡張計画=貯水池による飲料水供給体制
明治42年代になると、これまで紹介した改良事業による給水では、対応できないような状況になりました。水道使用量の増加と併せて河川からの上水の取水が困難になってきて、玉川上水も夏場には水量が減る状況となりました。そこで、東京市は、水道の拡張計画をたてます。
一人当たり使用量増加は、今後の使用人口増を考慮すると給水量の不足が誰の目にも明らかになってきました。
武蔵村山市史は、「一日、八〇〇万立方尺の浄水を供給する体制が整ったが、夏になると給水の限界を超えてしまい、四三年夏には八九〇万立方尺の給水量を示すに至ったのである。」(下p285)としています。この理由を東大和市史資料編2は「これは、人口増ばかりでなく、衛生思想が普及し、飲み水以外にも市民が水を多く使うようになったためである」(p19)と分析しています。
(1)水量不足
一方、玉川上水の自然流下方式では、渇水期に流水量が著しく低下し、夏期、配水管末端では断水を引き起こす状況でした。何らかの方策をとる必要に迫られました。
東京市は明治42年以降、淀橋浄水場の拡張工事などとともに、根本的な水道拡張事業の計画調査に着手しました。一例として、井の頭貯水池が立案されています。予算770万で、200万人の給水量が可能とされましたが、将来の人口増への対応に問題が残りました。
・明治42年(1909)3月、東京市会は、水道拡張の調査を内務省市区改正委員会に依頼します。
・明治42年4月、委員会は工学博士中嶋鋭治、西大条覚(にしおおえだ さとる)ほか10人を東京市水道拡張調査の委員として嘱託し、調査が開始されました。
(2)中島博士の調査結果
・明治44年(1911)12月13日、中島博士は多摩川水源地方の山野を踏査した結果に基づき計画案をまとめ、東京市区改正委員会に提出しました。要点は
・多摩川の水を取り入れ、大きな貯水池に貯水する
・貯水池から浄水場に安定した水量を送る
というものでした。そして、
①西多摩郡大久野村
②北多摩郡村山
の二案を提示しました。
こうして、東京の上水問題は貯水池の建設問題になり、東大和市域の村々に大きな影響を及ぼすことになりました。
その概要は、
・玉川上水路により多摩川の水を羽村取り入れ口から千駄ヶ谷村の浄水工場に導く
・沈殿・ろ過した後、麻布及び小石川の給水工場へ送水
・浄水工場、給水工場の3箇所の給水工場からポンプ圧送あるいは自然流下で市内に配水するとするものでした。
この案は内閣総理大臣の認可を得、東京府知事が告示しました。その後、明治24(1891)年11月、東京府庁内に「東京市水道改良事務所」を開設し、主任技師に中島鋭治を任命(バルトンを顧問)して再検討が行われ、次のように変更されました。
・浄水工場設置場所を淀橋町
・給水工場設置場所を本郷及び芝へと変更
・和田堀、淀橋間に新水路を築造する
給水開始
工事は幾多の問題を抱え難航しましたが
明治31年(1898)12月17日、神田、日本橋方面に一部、給水を開始しました。
明治32年(1899)1月、各戸給水工事に着工しました。
◎この給水開始により、上水の樋筋は廃止されました。
明治34年(1901)6月30日、神田・玉川上水について東京市布告が出されます。
「廃止後、掛樋は取毀ち、石縁桝は、縁石を堀取の上、埋立、他は現在の儘(まま)抛棄するものとす」とするものでした。
これをもって、玉川上水の廃止とする考えもありますが、淀橋浄水場までは玉川上水が使われています。ここでは、東村山浄水場への集中、小平監視所以下の使用が停止された時をもって廃止としたいと思います。
2水道拡張計画=貯水池による飲料水供給体制
明治42年代になると、これまで紹介した改良事業による給水では、対応できないような状況になりました。水道使用量の増加と併せて河川からの上水の取水が困難になってきて、玉川上水も夏場には水量が減る状況となりました。そこで、東京市は、水道の拡張計画をたてます。
一人当たり使用量増加は、今後の使用人口増を考慮すると給水量の不足が誰の目にも明らかになってきました。
武蔵村山市史は、「一日、八〇〇万立方尺の浄水を供給する体制が整ったが、夏になると給水の限界を超えてしまい、四三年夏には八九〇万立方尺の給水量を示すに至ったのである。」(下p285)としています。この理由を東大和市史資料編2は「これは、人口増ばかりでなく、衛生思想が普及し、飲み水以外にも市民が水を多く使うようになったためである」(p19)と分析しています。
(1)水量不足
一方、玉川上水の自然流下方式では、渇水期に流水量が著しく低下し、夏期、配水管末端では断水を引き起こす状況でした。何らかの方策をとる必要に迫られました。
東京市は明治42年以降、淀橋浄水場の拡張工事などとともに、根本的な水道拡張事業の計画調査に着手しました。一例として、井の頭貯水池が立案されています。予算770万で、200万人の給水量が可能とされましたが、将来の人口増への対応に問題が残りました。
・明治42年(1909)3月、東京市会は、水道拡張の調査を内務省市区改正委員会に依頼します。
・明治42年4月、委員会は工学博士中嶋鋭治、西大条覚(にしおおえだ さとる)ほか10人を東京市水道拡張調査の委員として嘱託し、調査が開始されました。
(2)中島博士の調査結果
・明治44年(1911)12月13日、中島博士は多摩川水源地方の山野を踏査した結果に基づき計画案をまとめ、東京市区改正委員会に提出しました。要点は
・多摩川の水を取り入れ、大きな貯水池に貯水する
・貯水池から浄水場に安定した水量を送る
というものでした。そして、
①西多摩郡大久野村
②北多摩郡村山
の二案を提示しました。
こうして、東京の上水問題は貯水池の建設問題になり、東大和市域の村々に大きな影響を及ぼすことになりました。
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Citation
“明治の水道改良事業,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1521.