村山貯水池の建設

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東京の飲み水不足 村山貯水池の建設へ
明治になっても、東京の上水は江戸時代とかわらぬ玉川上水、神田上水を中心とするものでした。明治7年(1874)銀座に煉瓦街が出来ます。明治16年(1883)、鹿鳴館を中心に華やかな外交、紳士・淑女の交流が展開されます。洋風の生活様式が急速に流入してきました。その傍らで江戸時代からの上水井戸とは!どんなふうに使い分けていたのか、とても気になります。
明治19年(1886)、コレラが流行しました。東京市15区、郡部をあわせて、患者12,171人、死者 9,879人とされます。一日に300人以上の死者を出したと伝えられます。
そこに起こったのが、玉川上水の水源である多摩川上流で、こともあろうに、コレラ患者の汚物の洗濯をしたとの問題でした。最終的には、玉川上水にコレラ菌は流れなかったことになりますが、これを契機に一挙に上水改良議論が沸騰しました。

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