明治初年の年貢減免運動
タイトル (Title)
明治初年の年貢減免運動
詳細 (Description)
「明治初年の年貢なんて! 江戸時代じゃあるまいし」
と疑いの眼が向けられそうです。でも、狭山丘陵の村々で起こった事柄です。
当時の村の長がいかに労力を使って目的を達成したかの具体例です。その後、自由民権運動を進めた一方の旗頭でもありました。
天候不順 明治2年(1869)は、天候不順でした。1月から雨が多く、6月などは月の内24日間も雨が降る状況でした。お隣の武蔵村山市に伝わる『指田日記』は
「6月6日・7日 雨。当年山繭(やままゆ)多し。天保(の頃)午・未・申の三ケ年、山繭多くして酉年に至り、不作続きける故、飢渇の者多くあり、今年又、雨降り山繭多し、夜中、夜着・蒲団を着て、蚊帳をつる者もあり、天保の凶年の時候に似たり、心得あるべし。当月、大小の雨、二十四日あり」(『指田日記』p211)。
と記します。
さすがに明治政府の機関も「一宮氷川神社、府内神明宮、日枝神社に、十七日の間、風雨順時五穀成熟の祈願をする」状況でした。
収穫減 その最中の7月13日です。東大和市域の村々は、近年まれな大風、大雨に見舞われました。大木、建家など多くが吹き倒され、丹精込めた作付けが荒らされました。収穫は壊滅的で、立ち直りの見込みもない状況でした。
問題は年貢です。普段通りには納められません。近くの村々が集まって対策を論じました。結論は、減免を願い出ることになりました。9月に入り、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、廻り田村の村々で行動を開始します。先ずは、減免の嘆願です。
嘆願に韮山県御役所へ
明治2年(1869)9月27日朝、芋窪村と蔵敷村の名主が、韮山県御役所(港区)へと出立しました。夕刻に到着、常宿の泉屋に宿泊しました。当時の柴井町にあった宿で、単なる宿泊所と云うよりは様々な情報を提供したり、交換する場でもありました。名主二人は必死になって情報を集めて分析したはずです。
9月28日朝、両名主は韮山県御役所に嘆願書を出しました。年貢の減免、そのための現地調査の要望です。応対した役人の答えは、「今朝方、担当役が県下の情勢を調査に出かけた。廻村先で渡すように」との指示でした。
先ず、何を置いても現地の実情を調査して貰わなければ、減免はあり得ません。二人は大急ぎで帰村します。
9月30日、雨の中を戻り、村々の名主を招集しました。
10月1日、蔵敷村名主杢左衛門方に各村の名主が集まり、県の調査員に直接嘆願することを決めました。代表に蔵敷村名主・杢左衛門と廻り田村名主・太郎右衛門が選ばれました。
調査団一行を追う
10月2日雨、早朝、二人の名主は出発しました。先ず、県の調査団一行はどこに居るのか見当を付けなければなりません。現在の村山貯水池に沈んだ地域を一峰越して、扇町谷村の名主に様子を聞きました。どうやら、黒須村(入間市)へ立ち寄るらしいとの情報を得ます。ともかく坂戸村までと足を速め、坂戸で宿泊します。
10月3日曇り、早朝出立 北へ向かい上吉田村(坂戸市)の名主方へ立寄って情報を聞きます。そこで
・調査団一行は、去る28日に中山道大宮を出て、29日比企郡の出丸本郷(川島町)、30日~10月1日野本村(東松山市)、 2日山田村(?)、3日廣野村(嵐山町)、4日中爪村(小川町)泊りらしいと教えて貰います。
・中爪村で嘆願することにして、越辺川を渡り、比企郡坂本札所岩殿山への細道を山伝いに登り、岩殿観音(東松山)へ参詣。菅谷村(嵐山町) に泊まります。
10月4日雨、中爪村の寄場惣代名主に聞きます。調査団の一行はもう少し北の能増村(現・小川町)に泊るとの情報を得ます。雨の中、同村を訪ねます。ここで、ようやく担当役人に会う事が出来ました。
役人は「願いを叶えることはなかなか難しいが、関係書類(内見帳・願書)は預る。いつ行けるかはわからないが、扇町谷村についたらしかるべく回答する」
とのことでした。二人は小川村に泊まります。
10月5日曇、朝出立 帰路を急ぎ、青山峠を越て日影村(ときがわ町)・五明村(ときがわ町) ・本郷川を渡り、田中村(ときがわ町)・桃之木村(ときがわまち)・下瀬戸村(ときがわ町)・成瀬村・越生・今市(越生町)・上野村・毛呂本郷(毛呂山町)・小谷村・長瀬村・葛貫村(毛呂山町)・平澤川を渡り、鹿山村(日高市)で泊まります。
10月6日、双柳村(飯能市)へ出て、野田村・笹井村・根岸村、入間川を越へ、黒須村・扇町谷村に出て、水戸屋で昼食をとりました。そこで偶然にも、韮山県知事・江川氏付添いの役人が同村年寄・太七方に宿泊するとの情報を得ました。これ幸いと、そのまま過ごし、夜、訪ねます。
そこで、調査団はいずれは武州多摩郡へ出て、それより入間郡へと見分することを聞き取ります。
この間の状況を記録は「時候伺とともに何かと話し」と淡々と記しています。狭山丘陵北麓まで帰り着き、もう一歩なのにわざわざ帰村を延し、「何かと」話したことは、相当の運動をしたことが推測されます。その夜はわざわざ、扇町谷村の水戸屋へ泊まっています。
10月7日、朝出立、昼後に帰宅、早々に村々へ状況を報告しました。
淡々と日を追いましたが、そのルートは図の通りです。東大和市から埼玉県寄居町まで6日をかけての要請行動です。現在の地図に置き換えて、愕然としました。その結果はどうなったのでしょうか。
成果・年貢30%減
その後の流れは次の通りです。
・10月12日、扇町谷村名主から書面で、韮山県の権判事が来村する、至急おいで下さいとの通知。
減免を申請した村役人七名揃って出向きます。
・10月13日、扇町谷村名主宅で検見役と面会 14日に、調査を実施することに決定。
・10月14日、検見実施
・11月12日、年貢高80石が53石余となり30%減となりました。
こうして、韮山県役人の現地調査を実現し、年貢の30%を減額する事ができました。勝ち取ったと云った方が正確でしょう。村人は救われました。資料は行程図だけで恐縮です。全ルート徒歩です。明治初年、村と指導者の実態の一面です。この内野杢左衛門から名主を引き継いだ若き杢左衛門は、やがて明治11年(1878)、民権学習結社「衆楽会」を指導します。
と疑いの眼が向けられそうです。でも、狭山丘陵の村々で起こった事柄です。
当時の村の長がいかに労力を使って目的を達成したかの具体例です。その後、自由民権運動を進めた一方の旗頭でもありました。
天候不順 明治2年(1869)は、天候不順でした。1月から雨が多く、6月などは月の内24日間も雨が降る状況でした。お隣の武蔵村山市に伝わる『指田日記』は
「6月6日・7日 雨。当年山繭(やままゆ)多し。天保(の頃)午・未・申の三ケ年、山繭多くして酉年に至り、不作続きける故、飢渇の者多くあり、今年又、雨降り山繭多し、夜中、夜着・蒲団を着て、蚊帳をつる者もあり、天保の凶年の時候に似たり、心得あるべし。当月、大小の雨、二十四日あり」(『指田日記』p211)。
と記します。
さすがに明治政府の機関も「一宮氷川神社、府内神明宮、日枝神社に、十七日の間、風雨順時五穀成熟の祈願をする」状況でした。
収穫減 その最中の7月13日です。東大和市域の村々は、近年まれな大風、大雨に見舞われました。大木、建家など多くが吹き倒され、丹精込めた作付けが荒らされました。収穫は壊滅的で、立ち直りの見込みもない状況でした。
問題は年貢です。普段通りには納められません。近くの村々が集まって対策を論じました。結論は、減免を願い出ることになりました。9月に入り、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、廻り田村の村々で行動を開始します。先ずは、減免の嘆願です。
嘆願に韮山県御役所へ
明治2年(1869)9月27日朝、芋窪村と蔵敷村の名主が、韮山県御役所(港区)へと出立しました。夕刻に到着、常宿の泉屋に宿泊しました。当時の柴井町にあった宿で、単なる宿泊所と云うよりは様々な情報を提供したり、交換する場でもありました。名主二人は必死になって情報を集めて分析したはずです。
9月28日朝、両名主は韮山県御役所に嘆願書を出しました。年貢の減免、そのための現地調査の要望です。応対した役人の答えは、「今朝方、担当役が県下の情勢を調査に出かけた。廻村先で渡すように」との指示でした。
先ず、何を置いても現地の実情を調査して貰わなければ、減免はあり得ません。二人は大急ぎで帰村します。
9月30日、雨の中を戻り、村々の名主を招集しました。
10月1日、蔵敷村名主杢左衛門方に各村の名主が集まり、県の調査員に直接嘆願することを決めました。代表に蔵敷村名主・杢左衛門と廻り田村名主・太郎右衛門が選ばれました。
調査団一行を追う
10月2日雨、早朝、二人の名主は出発しました。先ず、県の調査団一行はどこに居るのか見当を付けなければなりません。現在の村山貯水池に沈んだ地域を一峰越して、扇町谷村の名主に様子を聞きました。どうやら、黒須村(入間市)へ立ち寄るらしいとの情報を得ます。ともかく坂戸村までと足を速め、坂戸で宿泊します。
10月3日曇り、早朝出立 北へ向かい上吉田村(坂戸市)の名主方へ立寄って情報を聞きます。そこで
・調査団一行は、去る28日に中山道大宮を出て、29日比企郡の出丸本郷(川島町)、30日~10月1日野本村(東松山市)、 2日山田村(?)、3日廣野村(嵐山町)、4日中爪村(小川町)泊りらしいと教えて貰います。
・中爪村で嘆願することにして、越辺川を渡り、比企郡坂本札所岩殿山への細道を山伝いに登り、岩殿観音(東松山)へ参詣。菅谷村(嵐山町) に泊まります。
10月4日雨、中爪村の寄場惣代名主に聞きます。調査団の一行はもう少し北の能増村(現・小川町)に泊るとの情報を得ます。雨の中、同村を訪ねます。ここで、ようやく担当役人に会う事が出来ました。
役人は「願いを叶えることはなかなか難しいが、関係書類(内見帳・願書)は預る。いつ行けるかはわからないが、扇町谷村についたらしかるべく回答する」
とのことでした。二人は小川村に泊まります。
10月5日曇、朝出立 帰路を急ぎ、青山峠を越て日影村(ときがわ町)・五明村(ときがわ町) ・本郷川を渡り、田中村(ときがわ町)・桃之木村(ときがわまち)・下瀬戸村(ときがわ町)・成瀬村・越生・今市(越生町)・上野村・毛呂本郷(毛呂山町)・小谷村・長瀬村・葛貫村(毛呂山町)・平澤川を渡り、鹿山村(日高市)で泊まります。
10月6日、双柳村(飯能市)へ出て、野田村・笹井村・根岸村、入間川を越へ、黒須村・扇町谷村に出て、水戸屋で昼食をとりました。そこで偶然にも、韮山県知事・江川氏付添いの役人が同村年寄・太七方に宿泊するとの情報を得ました。これ幸いと、そのまま過ごし、夜、訪ねます。
そこで、調査団はいずれは武州多摩郡へ出て、それより入間郡へと見分することを聞き取ります。
この間の状況を記録は「時候伺とともに何かと話し」と淡々と記しています。狭山丘陵北麓まで帰り着き、もう一歩なのにわざわざ帰村を延し、「何かと」話したことは、相当の運動をしたことが推測されます。その夜はわざわざ、扇町谷村の水戸屋へ泊まっています。
10月7日、朝出立、昼後に帰宅、早々に村々へ状況を報告しました。
淡々と日を追いましたが、そのルートは図の通りです。東大和市から埼玉県寄居町まで6日をかけての要請行動です。現在の地図に置き換えて、愕然としました。その結果はどうなったのでしょうか。
成果・年貢30%減
その後の流れは次の通りです。
・10月12日、扇町谷村名主から書面で、韮山県の権判事が来村する、至急おいで下さいとの通知。
減免を申請した村役人七名揃って出向きます。
・10月13日、扇町谷村名主宅で検見役と面会 14日に、調査を実施することに決定。
・10月14日、検見実施
・11月12日、年貢高80石が53石余となり30%減となりました。
こうして、韮山県役人の現地調査を実現し、年貢の30%を減額する事ができました。勝ち取ったと云った方が正確でしょう。村人は救われました。資料は行程図だけで恐縮です。全ルート徒歩です。明治初年、村と指導者の実態の一面です。この内野杢左衛門から名主を引き継いだ若き杢左衛門は、やがて明治11年(1878)、民権学習結社「衆楽会」を指導します。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“明治初年の年貢減免運動,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1781.