円乗院本堂左側の石造物

1江戸初期から幕末間の地蔵尊や石灯籠.jpg
2徳学地蔵尊.jpg
3嘉永元年(1848)石灯籠.jpg
4正面_奉納_愛宕大権現.jpg
5丸彫り地蔵尊.jpg
6丸彫り地蔵尊台石.jpg
7舟形_元禄7年(1694)地蔵尊.jpg
8地蔵尊拡大.jpg
9宝篋印塔_造立時期 形態、旧地不明.jpg
10享保3年(1718)石灯籠.jpg
11正面_愛宕大権現御宝前所願成就所.jpg

タイトル (Title)

円乗院本堂左側の石造物

詳細 (Description)

 円乘院本堂左側に石造物が並んでまつられています。元禄7年(1694)の地蔵尊は東大和市内で二番目に古い地蔵尊です。
 二つの石灯籠があります。いずれも神様と仏様が一緒に信仰されていた神仏習合時代のものです。円乘院の山号を愛宕山とするように、山内鎮守・愛宕大権現に奉納されたものです。
地蔵尊1 徳学地蔵尊
徳学地蔵尊
 宗祖弘法大師御入定1150年遠忌に際し、昭和59年(1984)に檀徒の方が奉納されました。
石灯籠1 嘉永元年(1848)石灯籠
嘉永元年石灯籠
右側 秋葉山大権現
榛名山大権現
正面 奉納 愛宕大権現
左側 神明宮
□□□□
後側 嘉永元年六月吉日
施主 弥八
 神仏習合の時代、円乗院が愛宕大権現を別当としてまつり、その前に石灯籠を捧げたことがわかります。嘉永元年(1848)は幕府が異国船打払令を復活し、江戸湾防備に躍起となり、翌年、江川太郎左衛門が農兵設置の建白書を幕府に提出するなど緊張が高まった年でした。
地蔵尊2 正徳6(1716)地蔵尊
 台石の刻みは摩滅して読み取れません。旧記録から復元します。
台石正面 正徳6(1716)丙申年
奉造立地蔵菩薩尊像
為餓鬼供養也
台石左側 施主三十五人
右側面 武州多摩郡後谷戸村
 この時代、後谷戸村(うしろがやと)の名が示すように狭山丘陵の谷筋を利用して、丘陵南麓に集落を形成していた村人達は野火止用水を南限として新田開発につとめ、ほぼ到達し、縦に細長い村を形成した時期でした。赤土に覆われた新畑は土質が悪く、生産性は極めて低かったと伝えられます。そのような中でも、これまで育ちにくかった子供達が成長可能な条件を生みつつありました。施主三十五人という、恐らく当時の村の全戸数と思われる村人達が、幼くして散った子供達に供養する気持ちが強く伝わります。
地蔵尊3 元禄7年(1694)地蔵尊
 摩滅して読みにくいですがかすかに辿れます。
仏身右側 武州多摩郡 施主
奉納 日待供養為二世安楽菩提也
元禄七年甲戌十一月吉日
 山口領 後ヶ谷村
 蓮華座 竹内佐五右エ門 町田佐五兵衛 関田市良兵衛 同五兵衛 同三郎兵衛 同庄兵衛 以下不明
 東大和市内で二番目に古い地蔵尊です。最古は元禄6年(1693)の地蔵尊で清水中堂墓地(三光院)にあります。この時代、後ヶ谷村(狭山地域)の村人達は1655年に野火止用水が完成したのを契機に、丘陵の南に広がる武蔵野の原野を懸命に新田開発し、「用水際」まで到達した時期でした。二世安楽、菩提を願う切実な情景が偲べます。
宝篋印塔造立時期 形態、旧地不明
石灯籠2 享保3年(1718)石灯籠
 摩滅していますが文字の刻みを追うことができます。
正面
寄進石灯籠
愛宕大権現御宝前所願成就所
右側面
享保三戉戌歳 別当 円乗院
左側面
六月十五日 願主 法印宥賢敬白
 所願成就に、法印宥賢(第二十三世権大僧都)が願主として造立したことを伝えます。寺伝で、法印宥賢は御本尊不動明の尊像を修復し、本堂庫裡再建の大業を成し遂げています。その際の謝恩の造立であることがわかります。享保年代(1716~1735)=江戸中期の狭山地域の愛宕信仰の趨勢を知る石造遺物です。

Item Relations

This item has no relations.

Tags

Collection

Citation

“円乗院本堂左側の石造物,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1755.