天明の打ち毀し(武州村山騒動)1
タイトル (Title)
天明の打ち毀し(武州村山騒動)1
詳細 (Description)
動機・口上 (天明4年・1784)
「もう、我慢がならねえ」
「ここでやらなきゃ、皆んなが潰れる」
「ちげえねえ」
「確かだ」
「きついけんど、村々に招集をかけんベえ」
穏やかな狭山丘陵の麓に、打ち毀しの事件がありました。
・天明4年(1784)です。
・天候不順と凶作が続く中、
・穀物の買い占めや売り惜しみをし、油商、質屋などをしていた富豪層に
・たまりかねた村人たちが立ち上がった事件です。
天明の打ち毀し、武州村山騒動と呼ばれます。
(画像:天明義挙の碑 羽村市 禅林寺に豊穣碑として関係者がまつられています)
天明3年(1783)は天候不順が続きました。
・ 正月より四月頃まで風雨が続き、寒気が甚しかった。
土用中も冷気のため田畑とも不作で、田植の日にも人々は綿入を着て、火にあたる程だった。
だから、穀物が高直になった。(『里正日誌』2p366)
・7月、浅間山が噴火しました。
狭山丘陵周辺でも、雨に交って砂を降らし或は風につれて白き毛のようなものが飛んで来た。
又大地の震(ふる)ふ音が昼夜に及び、
作物が皆々腐り、少しも実りませんでした。(『里正日誌』2p366)
・10月、食料の不足に、「麦わらで餅をつくる方法」が代官所から通達されています。
(『里正日誌』2p349)
・11月、代官所から百姓の徒党取り締まり令が出されました。
蔵敷村では住民揃って、承諾するとの連判帳を提出しました。(『里正日誌』2p350)
・12月、狭山丘陵周辺の村々が食料不足になり、代官所に食料拝借願いを提出しました。
こうした中で、翌年の天明4年(1784)2月、事件が起きました。
「天明年間東国変乱覚書」(著者は不明 羽村市下田家)が残され、「武州村山騒動之事」の見だしで、「武州村山大変次第之事」があり、経過が詳細に記されています。
1動機
(1)名主、組頭の憤り
天明4年(1784)2月26日夜、羽村の上水陣屋に、羽村村の名主・羽助、太郎右衛門、組頭・伝兵衛の3人が集まりました。
・せんだって、御公儀様が仰せ触れられた通り、
・市場や町場、村々の売買人は御上の仰せも恐れず、占売して諸人の難を引き出している。
・いかにしてこの難を救わんや。
・御上様へ訴えたくても、路用に差し詰って難儀だ。
・伝兵衛が云います。我ら老衰の身、七十余りになっている、もはや今生に生きすぎたり。
我々が頭取(とうどり)して諸人の難儀を助けよう。
・羽助が云います。しからば村々へ人集めの書付け捨て置き、買〆めの者ども打潰そうではないか。
◎名主や組頭が村人の心情を吐露して、働きかけます。
(2)張札
・太郎右衛門が筆を取って文言の下書きを作りこれを出す。
・しかれば、筆工を集めて書せんと、かの仙川御上水陣屋においてこれを書せける。
・その筆取りには太郎右衛門、源右衛門、要八、勘七、勘左衛門、政五郎などとそ聞えし。
・いよいよ張紙出来しければ、左の者これを張り廻る村数三十七ヵ村と聞し。
・仙川上水陣屋において会合の者どもには、名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛、筆工源右衛門、要八、勘左衛門、政五郎、勘七、札張りには惣七、半七などいう。
ほかに四五人辰の二月二十六日の夜、一夜のうちに張り廻る。知る人一人もなし。(中略)
・何者とも知れず村々御高札場村役人の宅前など張紙致し置きたる次第、都合両郡にて四十ヵ村余りと聞し。
・その張紙の丈言に曰く・・・」
ということで、天明4年(1784)2月27日、次のような張札が多摩・入間の各村の40ヵ村の要所に張られました。
「口上
・昨年、関八州をはじめとして東北地方まで、夏、秋ともに凶作で、
・米や雑穀の値が上がり、
・百姓が大いに困っている。
・お上から、今年の夏作ができるまで、必要な雑穀を保有してもよいが、
・それ以外の余りの分は放出するようにという命令があった。
・ところが、この辺の金持(商人)はお上の注意も恐れず、
・集まっては相談の上、
・市揚や町場へ放出された雑穀ばかりでなく、手持ちのものまで
・買い集め、売りおしみをして値段をつり上げている。
・大勢の難儀をかえりみない、非常に不法の仕方である。
・よって、この件につき相談したいので、
・二十八日夕方、箱根ケ崎の池尻へ、
・各村々、百石について二十人位の割で出席ください。
・もし出席しない村があったら、大勢で押寄せて、理不尽になことがあっても責任を持てないので、
・よく考えて、時刻に遅れないように集合下さい。
辰二月 困窮の村々
御名主 御年寄中 惣百姓」
注
◎発信者が「困窮の村々」となっていますが、実際の発信者は、羽村村の名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛など村の役職者達です。この人々が発起していることは、余程の事情と決心があったことと思われます。
◎張り紙があった村々では28日、代官所に注進しました。集合場所を指定された箱根ヶ崎村では27日に代官所に訴え出ています。
◎これを受けて、代官所がどのような措置をしたのかは不明です。
28日の夜、箱根ヶ崎の池尻に、総勢、2万人~3万人の村人達が集まります。
「もう、我慢がならねえ」
「ここでやらなきゃ、皆んなが潰れる」
「ちげえねえ」
「確かだ」
「きついけんど、村々に招集をかけんベえ」
穏やかな狭山丘陵の麓に、打ち毀しの事件がありました。
・天明4年(1784)です。
・天候不順と凶作が続く中、
・穀物の買い占めや売り惜しみをし、油商、質屋などをしていた富豪層に
・たまりかねた村人たちが立ち上がった事件です。
天明の打ち毀し、武州村山騒動と呼ばれます。
(画像:天明義挙の碑 羽村市 禅林寺に豊穣碑として関係者がまつられています)
天明3年(1783)は天候不順が続きました。
・ 正月より四月頃まで風雨が続き、寒気が甚しかった。
土用中も冷気のため田畑とも不作で、田植の日にも人々は綿入を着て、火にあたる程だった。
だから、穀物が高直になった。(『里正日誌』2p366)
・7月、浅間山が噴火しました。
狭山丘陵周辺でも、雨に交って砂を降らし或は風につれて白き毛のようなものが飛んで来た。
又大地の震(ふる)ふ音が昼夜に及び、
作物が皆々腐り、少しも実りませんでした。(『里正日誌』2p366)
・10月、食料の不足に、「麦わらで餅をつくる方法」が代官所から通達されています。
(『里正日誌』2p349)
・11月、代官所から百姓の徒党取り締まり令が出されました。
蔵敷村では住民揃って、承諾するとの連判帳を提出しました。(『里正日誌』2p350)
・12月、狭山丘陵周辺の村々が食料不足になり、代官所に食料拝借願いを提出しました。
こうした中で、翌年の天明4年(1784)2月、事件が起きました。
「天明年間東国変乱覚書」(著者は不明 羽村市下田家)が残され、「武州村山騒動之事」の見だしで、「武州村山大変次第之事」があり、経過が詳細に記されています。
1動機
(1)名主、組頭の憤り
天明4年(1784)2月26日夜、羽村の上水陣屋に、羽村村の名主・羽助、太郎右衛門、組頭・伝兵衛の3人が集まりました。
・せんだって、御公儀様が仰せ触れられた通り、
・市場や町場、村々の売買人は御上の仰せも恐れず、占売して諸人の難を引き出している。
・いかにしてこの難を救わんや。
・御上様へ訴えたくても、路用に差し詰って難儀だ。
・伝兵衛が云います。我ら老衰の身、七十余りになっている、もはや今生に生きすぎたり。
我々が頭取(とうどり)して諸人の難儀を助けよう。
・羽助が云います。しからば村々へ人集めの書付け捨て置き、買〆めの者ども打潰そうではないか。
◎名主や組頭が村人の心情を吐露して、働きかけます。
(2)張札
・太郎右衛門が筆を取って文言の下書きを作りこれを出す。
・しかれば、筆工を集めて書せんと、かの仙川御上水陣屋においてこれを書せける。
・その筆取りには太郎右衛門、源右衛門、要八、勘七、勘左衛門、政五郎などとそ聞えし。
・いよいよ張紙出来しければ、左の者これを張り廻る村数三十七ヵ村と聞し。
・仙川上水陣屋において会合の者どもには、名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛、筆工源右衛門、要八、勘左衛門、政五郎、勘七、札張りには惣七、半七などいう。
ほかに四五人辰の二月二十六日の夜、一夜のうちに張り廻る。知る人一人もなし。(中略)
・何者とも知れず村々御高札場村役人の宅前など張紙致し置きたる次第、都合両郡にて四十ヵ村余りと聞し。
・その張紙の丈言に曰く・・・」
ということで、天明4年(1784)2月27日、次のような張札が多摩・入間の各村の40ヵ村の要所に張られました。
「口上
・昨年、関八州をはじめとして東北地方まで、夏、秋ともに凶作で、
・米や雑穀の値が上がり、
・百姓が大いに困っている。
・お上から、今年の夏作ができるまで、必要な雑穀を保有してもよいが、
・それ以外の余りの分は放出するようにという命令があった。
・ところが、この辺の金持(商人)はお上の注意も恐れず、
・集まっては相談の上、
・市揚や町場へ放出された雑穀ばかりでなく、手持ちのものまで
・買い集め、売りおしみをして値段をつり上げている。
・大勢の難儀をかえりみない、非常に不法の仕方である。
・よって、この件につき相談したいので、
・二十八日夕方、箱根ケ崎の池尻へ、
・各村々、百石について二十人位の割で出席ください。
・もし出席しない村があったら、大勢で押寄せて、理不尽になことがあっても責任を持てないので、
・よく考えて、時刻に遅れないように集合下さい。
辰二月 困窮の村々
御名主 御年寄中 惣百姓」
注
◎発信者が「困窮の村々」となっていますが、実際の発信者は、羽村村の名主羽助、同太郎右衛門、組頭伝兵衛など村の役職者達です。この人々が発起していることは、余程の事情と決心があったことと思われます。
◎張り紙があった村々では28日、代官所に注進しました。集合場所を指定された箱根ヶ崎村では27日に代官所に訴え出ています。
◎これを受けて、代官所がどのような措置をしたのかは不明です。
28日の夜、箱根ヶ崎の池尻に、総勢、2万人~3万人の村人達が集まります。
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Citation
“天明の打ち毀し(武州村山騒動)1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月26日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1721.