村に来た地頭様
タイトル (Title)
村に来た地頭様
詳細 (Description)
家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。
「泣く子と地頭には勝てぬ」と云われますが、その地頭が最初に村に来た時には、住む家もなく、事務を執るところもありません。仕方なく、神社や寺、村の有力者の家に寄寓したとされます。妻子・家族と一緒に住み、時には田畑を耕し、馬で江戸城に通勤登城する姿に接し、村人も戸惑いながら、親近感を持ったかも知れません。しかし、検地を受け、年貢の取り立てに至ると、「泣く子も黙った」のが現実のようです。
その出身地や経歴は多彩でした。いずれも家康と密接な関係があった直属家臣と考えられます。
酒井氏(実明、剛藏と極之助(芋窪村と高木村)
芋窪と高木地域に配属された酒井実明は近江国の鎌波(米原市番場)の城主・土肥近江守実秀の子でした。織田信長に属していましたが、元亀2年(1571)浅井長政に攻められ、落城後に家老の酒井姓を名乗って武田信玄に仕えました。天正10年(1582)、武田氏が滅びると徳川家康に仕えています。
酒井実明はやがて、郷蔵昌明(兄)と極之助実次(弟)の子供達に領地を分けました。極之助実次は元和9年(1623)より富士見宝蔵番の頭となっています。
極之助実次は寛永2年(1625)か9年(1632)に墓所を高木村から江戸赤坂に移しました。寛永2年は、地頭に江戸の屋敷が割り当てられた年です。この頃から、地頭は村から引き上げ、江戸に本拠を移したようです。
郷蔵昌明は元禄2年(1689)公金費消の罪で改易、領地没収、以後、領地は幕府直轄領(天領)となりました。一方の極之助は明治まで支配を続けました。芋窪に居住し、陣屋跡と墓石が残されています。
◎『新編武蔵風土記稿』は豊鹿島神社神主の先祖である石井出羽守について、「地頭酒井某と大阪御陣にも出たなりしといえど、させる記録はなし」としています。
◎『大和町市研究』8で、煎本増夫氏は石井出羽守について「神主でありながら武士的性格を持ち、また階級的には農民である。石井家のような土豪的百姓は、寛永の初め頃には一般的に広範に存在したのではなかろうか」としています。
◎酒井氏の墓は芋窪・石井家の墓に移されています。
◎酒井氏の構えた陣屋は、現在も「ジンヤ」の屋号として残されています。
石川太郎右衛門(奈良橋村)
石川太郎右衛門は『東大和史市』では文禄元年(1592)、『狭山之栞』によれば、天正19年(1591)5月から奈良橋を治めたとします。
家康の祖父松平清康に仕えて以来の徳川家譜代の家臣でした。『狭山之栞』によれば、初代は関ヶ原の合戦で討ち死にし、その子孫に、相模国大隅郡の内、打間木村で200石加増されたとします。奈良橋に住み、二代長左衛門忠吉と続きましたが詳細は不明です。
三代忠重、四代忠総、五代矩重の墓石が雲性寺に残されています。享保18年(1733)知行地を返上して、蔵米取りとなりました。元文5年(1740)、奈良橋から江戸市ヶ谷に墓所を移しました。六代からは江戸に移りました。雲性寺に残る墓石は八代の安次郎矩純がたてたものといわれます。(『東大和市史資料編』10p15)
逸見四郎左衛門(後ヶ谷村)
『狭山之栞』によれば、「慶長2年(1597)3月、逸見四郎左衛門、溝口佐左衛門両人にて各165石を拝領す」とあります。
『狭山之栞』の著者の後裔がまとめた「代々のかがみ」では28代勘解由種繁について
「当代 天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川家の領となる。この改革事務一切に関与したのである」と記しています。また、
『武蔵名勝図会』に次の記述があります
「後ヶ谷村陣屋跡 後ヶ谷村にあり。文禄年中(一五九二~九六)逸見某に賜い、住居の跡なりと云。いまはその家絶えたり。又、隣村芋久保村にも陣屋跡というあり。これも先年地頭酒井極之助という人の住居の跡なり。
逸見氏は北条安房守氏規が臣なり。天正十八年(一五九〇)相州厚木にて戦死せる四郎左衛門氏久が子にて、小四郎左衛門義次といい、その子弥吉というもの御当家に属したるものなり。」
◎逸見四郎左衛門は甲州逸見郷の出身で、徳川家に仕官。相模、武蔵国で500石を知行しました。『武蔵名勝図会』の記載の陣屋は村山貯水池に沈んだ杉本にありました。代々名主を勤めた杉本家(元は石井)の先祖・石井勘解由は大阪の陣の時、逸見四郎左衛門と共に出陣したとされます。
延宝2年(1674)12月、故ありて上知、後ヶ谷村は幕府領になりました。
元禄3年(1690)蔵屋敷4畝6歩が年貢地として高入れされました。この時点で、地頭は完全に村と関係が無くなりました。(図の奥側取水塔の近くに逸見地頭の陣屋がありました。 溝口地頭陣屋については不明です。江戸市中から間接管理をしていたことも想定されます。)
溝口佐左衛門(内堀村)
『狭山之栞』によれば、慶長2年(1597)3月、165石を拝領とあります。伏見城の番を勤めました。
元文2年(1737)7月、上知し、幕府領になり、後ヶ谷村から分離して「宅部村」となりました。
浅井九郎左衛門(清水村)
『狭山之栞』によると
・天正19年5月3日、清水村は「浅井五郎左衛門」の采地となった。入間郡徳次郎村、鯨井村と併せて500石であった
(表からは清水村に着任した浅井氏は東大和市域以外に多くの所領がありました『五十嵐氏考』p63より)
・元禄7年(1694)、下田村、寺方村、中和田村を拝し、徳次郎村、鯨井村を上地して、村替えになった
・元は橘姓にて、四代目浅石七平次、元久の代、改めて藤原姓を名乗る、本国は近江としています。
『五十嵐氏考』によれば
・祖先は正親町三条公綱六代の孫で政胤、公綱が勅勘により近江浅井郡に配流、後、許されるが
・子の重政が小谷の庄に土着、浅井氏を称した
・浅井長政の代に越前朝倉氏と結び織田信長と戦って滅ぼされた。清水村の浅井氏はその分流である
・浅井政胤は松平広忠とその子家康に仕えた。家康江戸入りと同時に清水村と入間郡鯨井村を知行地として与えられた。86才で没し、清水村の成就院に葬られた。
・文政2年(1819)の石高は
◎この記述によれば、初代は成就院を開創し、埋葬された地頭で、地元と深いつながりのあったことをつたえます。延宝9年(1681)清水村から江戸小石川へ墓所を移しています。
◎文化14年(1817)には清水村と諍いが起こり、清水村の村人達は「箱訴」をして浅井氏の非道を訴えています。明治維新まで清水村の領主でした。
江戸への引き上げ
17世紀半ばになると、江戸の整備が進み、地頭に支給される領地の分散化もあって、地頭は村から離れて、江戸に住むようになりました。
時代を経るに従い、何らかの理由をつけられては、領地を幕府に没収され、天領化=幕府の直轄地化されています。知行地を返上して、蔵米取りとなった場合もあります。
「泣く子と地頭には勝てぬ」と云われますが、その地頭が最初に村に来た時には、住む家もなく、事務を執るところもありません。仕方なく、神社や寺、村の有力者の家に寄寓したとされます。妻子・家族と一緒に住み、時には田畑を耕し、馬で江戸城に通勤登城する姿に接し、村人も戸惑いながら、親近感を持ったかも知れません。しかし、検地を受け、年貢の取り立てに至ると、「泣く子も黙った」のが現実のようです。
その出身地や経歴は多彩でした。いずれも家康と密接な関係があった直属家臣と考えられます。
酒井氏(実明、剛藏と極之助(芋窪村と高木村)
芋窪と高木地域に配属された酒井実明は近江国の鎌波(米原市番場)の城主・土肥近江守実秀の子でした。織田信長に属していましたが、元亀2年(1571)浅井長政に攻められ、落城後に家老の酒井姓を名乗って武田信玄に仕えました。天正10年(1582)、武田氏が滅びると徳川家康に仕えています。
酒井実明はやがて、郷蔵昌明(兄)と極之助実次(弟)の子供達に領地を分けました。極之助実次は元和9年(1623)より富士見宝蔵番の頭となっています。
極之助実次は寛永2年(1625)か9年(1632)に墓所を高木村から江戸赤坂に移しました。寛永2年は、地頭に江戸の屋敷が割り当てられた年です。この頃から、地頭は村から引き上げ、江戸に本拠を移したようです。
郷蔵昌明は元禄2年(1689)公金費消の罪で改易、領地没収、以後、領地は幕府直轄領(天領)となりました。一方の極之助は明治まで支配を続けました。芋窪に居住し、陣屋跡と墓石が残されています。
◎『新編武蔵風土記稿』は豊鹿島神社神主の先祖である石井出羽守について、「地頭酒井某と大阪御陣にも出たなりしといえど、させる記録はなし」としています。
◎『大和町市研究』8で、煎本増夫氏は石井出羽守について「神主でありながら武士的性格を持ち、また階級的には農民である。石井家のような土豪的百姓は、寛永の初め頃には一般的に広範に存在したのではなかろうか」としています。
◎酒井氏の墓は芋窪・石井家の墓に移されています。
◎酒井氏の構えた陣屋は、現在も「ジンヤ」の屋号として残されています。
石川太郎右衛門(奈良橋村)
石川太郎右衛門は『東大和史市』では文禄元年(1592)、『狭山之栞』によれば、天正19年(1591)5月から奈良橋を治めたとします。
家康の祖父松平清康に仕えて以来の徳川家譜代の家臣でした。『狭山之栞』によれば、初代は関ヶ原の合戦で討ち死にし、その子孫に、相模国大隅郡の内、打間木村で200石加増されたとします。奈良橋に住み、二代長左衛門忠吉と続きましたが詳細は不明です。
三代忠重、四代忠総、五代矩重の墓石が雲性寺に残されています。享保18年(1733)知行地を返上して、蔵米取りとなりました。元文5年(1740)、奈良橋から江戸市ヶ谷に墓所を移しました。六代からは江戸に移りました。雲性寺に残る墓石は八代の安次郎矩純がたてたものといわれます。(『東大和市史資料編』10p15)
逸見四郎左衛門(後ヶ谷村)
『狭山之栞』によれば、「慶長2年(1597)3月、逸見四郎左衛門、溝口佐左衛門両人にて各165石を拝領す」とあります。
『狭山之栞』の著者の後裔がまとめた「代々のかがみ」では28代勘解由種繁について
「当代 天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川家の領となる。この改革事務一切に関与したのである」と記しています。また、
『武蔵名勝図会』に次の記述があります
「後ヶ谷村陣屋跡 後ヶ谷村にあり。文禄年中(一五九二~九六)逸見某に賜い、住居の跡なりと云。いまはその家絶えたり。又、隣村芋久保村にも陣屋跡というあり。これも先年地頭酒井極之助という人の住居の跡なり。
逸見氏は北条安房守氏規が臣なり。天正十八年(一五九〇)相州厚木にて戦死せる四郎左衛門氏久が子にて、小四郎左衛門義次といい、その子弥吉というもの御当家に属したるものなり。」
◎逸見四郎左衛門は甲州逸見郷の出身で、徳川家に仕官。相模、武蔵国で500石を知行しました。『武蔵名勝図会』の記載の陣屋は村山貯水池に沈んだ杉本にありました。代々名主を勤めた杉本家(元は石井)の先祖・石井勘解由は大阪の陣の時、逸見四郎左衛門と共に出陣したとされます。
延宝2年(1674)12月、故ありて上知、後ヶ谷村は幕府領になりました。
元禄3年(1690)蔵屋敷4畝6歩が年貢地として高入れされました。この時点で、地頭は完全に村と関係が無くなりました。(図の奥側取水塔の近くに逸見地頭の陣屋がありました。 溝口地頭陣屋については不明です。江戸市中から間接管理をしていたことも想定されます。)
溝口佐左衛門(内堀村)
『狭山之栞』によれば、慶長2年(1597)3月、165石を拝領とあります。伏見城の番を勤めました。
元文2年(1737)7月、上知し、幕府領になり、後ヶ谷村から分離して「宅部村」となりました。
浅井九郎左衛門(清水村)
『狭山之栞』によると
・天正19年5月3日、清水村は「浅井五郎左衛門」の采地となった。入間郡徳次郎村、鯨井村と併せて500石であった
(表からは清水村に着任した浅井氏は東大和市域以外に多くの所領がありました『五十嵐氏考』p63より)
・元禄7年(1694)、下田村、寺方村、中和田村を拝し、徳次郎村、鯨井村を上地して、村替えになった
・元は橘姓にて、四代目浅石七平次、元久の代、改めて藤原姓を名乗る、本国は近江としています。
『五十嵐氏考』によれば
・祖先は正親町三条公綱六代の孫で政胤、公綱が勅勘により近江浅井郡に配流、後、許されるが
・子の重政が小谷の庄に土着、浅井氏を称した
・浅井長政の代に越前朝倉氏と結び織田信長と戦って滅ぼされた。清水村の浅井氏はその分流である
・浅井政胤は松平広忠とその子家康に仕えた。家康江戸入りと同時に清水村と入間郡鯨井村を知行地として与えられた。86才で没し、清水村の成就院に葬られた。
・文政2年(1819)の石高は
◎この記述によれば、初代は成就院を開創し、埋葬された地頭で、地元と深いつながりのあったことをつたえます。延宝9年(1681)清水村から江戸小石川へ墓所を移しています。
◎文化14年(1817)には清水村と諍いが起こり、清水村の村人達は「箱訴」をして浅井氏の非道を訴えています。明治維新まで清水村の領主でした。
江戸への引き上げ
17世紀半ばになると、江戸の整備が進み、地頭に支給される領地の分散化もあって、地頭は村から離れて、江戸に住むようになりました。
時代を経るに従い、何らかの理由をつけられては、領地を幕府に没収され、天領化=幕府の直轄地化されています。知行地を返上して、蔵米取りとなった場合もあります。
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“村に来た地頭様,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1712.