村に地頭がやってきた
タイトル (Title)
村に地頭がやってきた
詳細 (Description)
天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)は、当家の家譜を記す『代々のかがみ』に
「当代、天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。 この改革事務一切に関与したのである。」
と記します。東大和市域にも何らかの動きがあったことが想定されます。
直属家臣の配属
家康は、翌・天正19年(1591)、正月から奥羽の葛西・大崎一揆の鎮圧に忙殺され、3月末に江戸に戻りました。その後、驚くほど迅速に新たな地への支配を開始しました。所属家臣団の新領国への知行割りを行い、東大和市周辺では4月には八王子地区で検地を行い、5月に一部の家臣に知行の割当てを行いました。
多摩、入間、新座にかかわるものは、70石から500石程度の家臣団が配属され、箱根ヶ崎、殿ヶ谷、三ツ木、中藤、久米、町屋、大鐘、堀口、三ヶ島等の村名が確認されています。
東大和市域に関しては、天正19年(1591)11月、家康から清水村氷川神社に5石、三光院に3石の領地が与えられたと伝えられます。また、『武蔵名所図会』は後ヶ谷村陣屋跡として
「後ヶ谷村にあり。文禄年中(一五九二一九六)逸見某に賜い、住居の跡なりと云。いまはその家絶えたり。又、隣村芋久保村にも陣屋跡というあり。これも先年地頭酒井極之助という人の住居の跡なり。 逸見氏は北条安房守氏規が臣なり。天正十八年(一五九〇)相州厚木にて戦死せる四郎左衛門氏久が子にて、小四郎左衛門義次といい、そ の子弥吉というもの御当家に属したるものなり。」(p59)
と伝えます。これらから、直接的な資料が明らかではありませんが、天正19年(1591)から文禄年中(1592~96)にかけて、東大和市域に家康の直属家臣が配属されたものと思われます。
村切り
驚くことに配属された家臣には知行と共に東大和市域内ではこれまで知られなかった村の名前が明らかになりました。いわゆる村切りです。統治のため、中世の「郷」を分割し「村」を形成させたものと云われますが、村人もさぞビックリのことだったでしょう!
その方法は、中世の谷ッを中心に散在していた集落を石高に合わせて、半ば強引にまとめたようです。境界を画する川や山はなく、その他特別の指標となるものもありません。
つくられた村の領域は狭山丘陵の中と麓だけでした。南面に広がる広大な地域は全域が武蔵野の原でした。玉川上水も野火止用水も開削される以前です。
大げさに言えば多摩川まで連なる原野の中に狭山丘陵がポッカリ浮かび、村人達の竈の煙がたつ姿が想像されます。
ここに新たに家康の直属家臣が統治する近世の村が門出をしたと云えそうです。
支配地の石高
村ごとの石高は表の通りです。石高もあっと云う間に決められ、その上に、小さな村の中で2人の家臣・知行人が居るという相給制度がとられています。
配属された家臣は、江戸が未整備な事から、家族とともに村に住み、陣屋を設け、地頭と呼ばれました。江戸へは馬で通勤登城しました。その道は江戸街道と呼ばれました。
「当代、天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。 この改革事務一切に関与したのである。」
と記します。東大和市域にも何らかの動きがあったことが想定されます。
直属家臣の配属
家康は、翌・天正19年(1591)、正月から奥羽の葛西・大崎一揆の鎮圧に忙殺され、3月末に江戸に戻りました。その後、驚くほど迅速に新たな地への支配を開始しました。所属家臣団の新領国への知行割りを行い、東大和市周辺では4月には八王子地区で検地を行い、5月に一部の家臣に知行の割当てを行いました。
多摩、入間、新座にかかわるものは、70石から500石程度の家臣団が配属され、箱根ヶ崎、殿ヶ谷、三ツ木、中藤、久米、町屋、大鐘、堀口、三ヶ島等の村名が確認されています。
東大和市域に関しては、天正19年(1591)11月、家康から清水村氷川神社に5石、三光院に3石の領地が与えられたと伝えられます。また、『武蔵名所図会』は後ヶ谷村陣屋跡として
「後ヶ谷村にあり。文禄年中(一五九二一九六)逸見某に賜い、住居の跡なりと云。いまはその家絶えたり。又、隣村芋久保村にも陣屋跡というあり。これも先年地頭酒井極之助という人の住居の跡なり。 逸見氏は北条安房守氏規が臣なり。天正十八年(一五九〇)相州厚木にて戦死せる四郎左衛門氏久が子にて、小四郎左衛門義次といい、そ の子弥吉というもの御当家に属したるものなり。」(p59)
と伝えます。これらから、直接的な資料が明らかではありませんが、天正19年(1591)から文禄年中(1592~96)にかけて、東大和市域に家康の直属家臣が配属されたものと思われます。
村切り
驚くことに配属された家臣には知行と共に東大和市域内ではこれまで知られなかった村の名前が明らかになりました。いわゆる村切りです。統治のため、中世の「郷」を分割し「村」を形成させたものと云われますが、村人もさぞビックリのことだったでしょう!
その方法は、中世の谷ッを中心に散在していた集落を石高に合わせて、半ば強引にまとめたようです。境界を画する川や山はなく、その他特別の指標となるものもありません。
つくられた村の領域は狭山丘陵の中と麓だけでした。南面に広がる広大な地域は全域が武蔵野の原でした。玉川上水も野火止用水も開削される以前です。
大げさに言えば多摩川まで連なる原野の中に狭山丘陵がポッカリ浮かび、村人達の竈の煙がたつ姿が想像されます。
ここに新たに家康の直属家臣が統治する近世の村が門出をしたと云えそうです。
支配地の石高
村ごとの石高は表の通りです。石高もあっと云う間に決められ、その上に、小さな村の中で2人の家臣・知行人が居るという相給制度がとられています。
配属された家臣は、江戸が未整備な事から、家族とともに村に住み、陣屋を設け、地頭と呼ばれました。江戸へは馬で通勤登城しました。その道は江戸街道と呼ばれました。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“村に地頭がやってきた,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1695.