天王様の神々
タイトル (Title)
天王様の神々
詳細 (Description)
昭和の30年代初め、『大和町史』の編纂が進められていたときです。現在の芋窪の天王様は、住吉・八雲神社と呼ばれていました。でも、古老は
「名前はそうかも知んねえけんど、オレーラ(俺ら)には天王様よ」
といい切って、
「岸の天王様と野口の天王様を調べてみな」
と教えられました。
岸の天王様は武蔵村山市にまつられる須賀神社、野口の天王様は東村山市の八坂神社です。
調べていて、こんなに神社の名前が違うのに、共通することが多くて古老の言葉が胸にどんと納まりました。
それぞれの神社にまつられた神様は
・祭神 素盞雄命尊(すさのうのみこと)、牛頭天王(ごずてんのう)
・悪疫(あくえき・たちの悪い流行病)や病魔(びょうま・病気)を防ぎ、かかった人々に救いの手を伸ばし
・天候や水源の安定を図り
・農作物の豊かな実りをもたらせて
・日々の生活を安定させる
でした。
神社の名前は
・武蔵村山市の須賀神社 江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれて、明治時代に須賀神社と改称されました。
・東村山市の八坂神社 「武蔵野天王宮」「祇園社」「野口村の牛頭天王」「八雲神社」で、明治時代に八坂神社となりました。
・慶応4年(1868)3月、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)がだされました。それをもとに、神様と仏様を別にまつることになりました。その結果、それぞれの村の神社の名前が変わりました。
・東大和市の芋窪でも何らかの変更があったのかもしれません。残念ですが、江戸時代の芋窪村の資料がなくて調べ切れていません。天王様は明治3年(1870)11月の書上げでは、現在と同じ、豊鹿島神社の摂社「住吉社・八雲社」になっています。
最初は石川の里の丘にまつられた
芋窪の天王様は最初、村山貯水池に沈んだ石川の里にまつられました。
石川の里は狭山丘陵が刻んだ峰々の谷ッに古代から形成されました。天王様はその小高い丘から村人や田畑を見守るように社殿が設けられました。
この地に生まれ、住吉神社の氏子であった乙幡六太郎氏は
「字・石川・第二千二百三十二番地の丘上にあり、左は土ヶ窪、右は南ヶ谷を見おろす。祠は南に面して立ち、茅葺き、板張り・・・」と記しています。創立年代などは不明です。
村山貯水池建設関係の写真で見ると、松林がある小高い峰の見晴らしの良い場所でした。すぐ近くに「雷明神」の碑があり、「いかずちやま」と呼ばれていたようです。
この住吉・八雲神社=天王様と石川の里の位置関係は武蔵村山市岸の須賀神社(遙拝所)と奥の院・奥社との位置関係とよく似ています。
石川にあった天王様は大正時代のはじめ村山貯水池の建設により芋窪四丁目に移転しました。その状況は「旧住吉神社と御嶽神社」に書きました。なお、「雷明神」の碑は新しい社殿の左側にまつられています。
神様のいわれ(古事記と日本書紀)
芋窪の天王様は悪疫や病気を防ぎ、天候や水利を安定させ、豊作をもたらす神として村人達に崇敬されました。社殿には、住吉神社と八雲神社がまつられています。祭神は次の神々です。
・住吉神社 底筒男命(そこつつおのみこと)
中津和多津見命(なかつわたつみのみこと)
上津和多津見命(うわつわたつみのみこと)
・八雲神社 素盞雄命(すさのうのみこと)
この神様は関係がとても深く、古事記と日本書紀に次のように伝えられます。長くなりますがお付き合い下さい。
古事記
「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は天の浮橋に立って淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)をはじめとして、次々に島を生み、大八島国(おおやしまくに)を生み出されます。
引き続き様々な神様を生み、伊邪那美命が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ時、大やけどを負い、出雲国(いずものくに)と伯伎国(ほうきのくに)との堺の比婆の山(黄泉国・よみのくに)に葬られます。
伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとあとを追います。しかし、女神の姿はすっかり変わり、八種の雷神が鳴り響き、1500人の軍勢を引き連れて尊に迫ります。やむなく、尊は引き返し、御身の禊ぎ(みそぎ)をしようと、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊ぎ祓(はら)えを行います。
その際、水の底にもぐって身を洗い清めるときに底筒之男命(そこつつのおのみこと)、瀬の中ほどで中筒之男命(なかつつのおのみこと)、水の上で上筒之男命(うわつつのおのみこと)がそれぞれお生まれになりました。この三柱の神が墨江(すみのえ・住吉神社)の三大神です。
さらに、左の御眼を洗われると天照大神(あまてらすおおみかみ)、右の御眼を洗われると月読命(つくよみのみこと)、御鼻を洗うと、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと)がお生まれになりました。そして、天照大神に高天原(たかまがはら)、月読命に夜の世界、建速須佐之男命には海原を治めなさいと云われました。」
『次田真幸 全訳注 古事記』(講談社学術文庫)を参考としました。(p55~71)
日本書紀
もう一つの日本書紀の伝えです。
「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は協力して大八州国(おおやしまのくに)を生み出されました。続いて、多くの神々をお生みになった後、火の神軻遇突智(かぐつち)の神が生まれるとき、その母伊弉冉尊は身を焼かれておかくれになりました。
伊弉諾尊は伊弉冉尊を追いかけて黄泉(よみ)の国まで行って話し合われました。イザナミノミコトは「私の寝姿を見ないでください」と云われたのに、イザナギノミコトはこっそり覗いてしまいます。そこには膿(うみ)がながれ、ウジがが湧いていました。
イザナギノミコトは逃げ帰ります。イザナミノミコトは「どうして、約束を守らずに、私に恥をかかせるのです」と云って冥界(めいかい)の鬼女8人をして追いかけさせます。
イザナギノミコトはその道を塞ぎ、ようよう帰られました。そして、悔いながら、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の川の落ち口の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)に行かれて、「私の体の汚れたところを洗い流そう」と云われ、禊(みそ)ぎはらいをされました。
水の底にもぐってすすいで生まれた神が底筒之男命(そこつつおのみこと)。潮の中にもぐってすすいだ時に生まれた神が中筒之男命(なかつつおのみこと)。また潮の上に浮いてすすいで、生まれた神が上筒之男命(うわつつおのみこと)でした。
それから後、左の眼を洗われると、天照大神(あまてらすおおみかみ)、右の眼を洗われると、月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗われると、素戔嗚尊(すさのうのみこと)がお生まれになりました。
そして、イザナギノミコトは天照大神に高天原(たかまがはら)、月読尊に青海原の潮流、素戔嗚尊に天下を治めなさいと託されました。
『宇治谷 孟(つとむ) 日本書紀上』(講談社学術文庫)を参考としました。(p26~30)
どの神様も水に関係する神々です。狭山丘陵の谷ッに形成された石川の里の自然環境、天候、水利の安定を祈り作物の豊作を願ったのだと思われます。
そして、日本書紀では素戔嗚尊(すさのうのみこと)は天下を治めるように託されています。農作物の豊かな実り、日々の生活の充足、地域の安定、さらに疫病の防止、病魔の退治を祈願したと思われます。
素盞雄命(すさのうのみこと)と牛頭天王(ごずてんのう)
芋窪の天王様の由来です。なぜ天王様なのでしょうか?
日本には神道と仏教があります。かっては、村人の日常生活の中に神棚と仏壇があって常日頃お祈りました。神と仏が近くにありました。
そして、この神々は、いろいろな仏様が化身となって、それぞれの姿で現れるのだとの考えがありました。権現様(ごんげんさま)と呼ばれます。「熊野大権現」(蔵敷・熊野神社)、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん・高木神社)のように、神社に神と仏を一緒におまつりしていました。
明治維新の時です。時の政府から神仏分離令(慶応4年・1868)にが出されました。東大和市域の村人も「御一新に付き、神仏混淆(こんこう) 相成らない旨の御布告」を受け、神社から神様と仏様を分ける作業をしました(『里正日誌』10p406)。以来、各神社は現在の呼び名になりました。
東村山市の八坂神社は「武蔵野天王宮」「野口村の牛頭天王さま」「祇園社」と呼ばれ、素戔嗚尊と牛頭天王が共にお祈りの対象となっていました。それが、素戔嗚尊と牛頭天王を分離して、素戔嗚尊を祭神として「八坂神社」となったと伝えます。その歴史を物語るかのように、八坂神社の社殿には「武蔵野牛頭天王」額、旧社殿であった奉額殿には「祇園社」額が掲げられています。
牛頭天王について、八坂神社のパンフレットは次のように説明しています。
「牛頭天王(ごずてんのう)
牛頭天王とはインドの祇園精舎の守護神といわれます。牛頭天王はインド北方九相国の神で、素盞嗚尊(すさのうのみこと)とインドの牛頭天王との事跡に、似ていらっしゃることから習合されたと伝えられます。京都の「八坂神社」に祭られています。愛知県の「津島神社」にも古くからこの神の信仰が深くひきつがれています。」
芋窪の天王様は八雲神社をまつっています。八雲神社は素戔嗚尊と牛頭天王を祭神とするところが多いです。素戔嗚尊と牛頭天王は暴れ神と同時に、逆に強力にそれを防ぎ平安をもたらす神、地域を守る神として信じられてきました。医療に乏しかった村人にとって、疫病は命取りで何より恐ろしく、退治を真剣に願ったと思われます。素戔嗚尊は牛頭天王で、芋窪では「天王様」として頼りにされたのではないでしょうか。
治水と疫病退治
さらに、芋窪の天王様にまつられる住吉神社の神々は海運、航海、商売の神として崇拝されます。石川の里にまつられたのは、集落の最も奥から流れ出る石川の水源と併せて水田経営のため最優先された溜池の安定を祈願したのだと思います。
芋窪の天王様はこうして、穏やか自然現象、治水のもとに作物の豊かなみのり、悪疫、病魔を防ぐ力強い守り神として、村人達に頼られてきました。
新たに社殿が建立されました。そのとき、新コロナウイルスの蔓延が世界的に厳しい状況を生んでいます。まさに素戔嗚尊と牛頭天王にお出ましを願い、疫病を退治して頂きたく手を合わせます。
なお、東大和市に伝わる民間行事の一つとして「天王さま」の日がありました。『東大和市史資料編』9では
「天王さま(七月十五日)
天王さまといって、その日はご馳走を作る。奈良橋の八幡様では祈願祭の神事を神社の役員が出席して行い、あと直会(なおらい)を今もやっている。」(p107)
「名前はそうかも知んねえけんど、オレーラ(俺ら)には天王様よ」
といい切って、
「岸の天王様と野口の天王様を調べてみな」
と教えられました。
岸の天王様は武蔵村山市にまつられる須賀神社、野口の天王様は東村山市の八坂神社です。
調べていて、こんなに神社の名前が違うのに、共通することが多くて古老の言葉が胸にどんと納まりました。
それぞれの神社にまつられた神様は
・祭神 素盞雄命尊(すさのうのみこと)、牛頭天王(ごずてんのう)
・悪疫(あくえき・たちの悪い流行病)や病魔(びょうま・病気)を防ぎ、かかった人々に救いの手を伸ばし
・天候や水源の安定を図り
・農作物の豊かな実りをもたらせて
・日々の生活を安定させる
でした。
神社の名前は
・武蔵村山市の須賀神社 江戸時代には「牛頭天王社」と呼ばれて、明治時代に須賀神社と改称されました。
・東村山市の八坂神社 「武蔵野天王宮」「祇園社」「野口村の牛頭天王」「八雲神社」で、明治時代に八坂神社となりました。
・慶応4年(1868)3月、神仏分離令(しんぶつぶんりれい)がだされました。それをもとに、神様と仏様を別にまつることになりました。その結果、それぞれの村の神社の名前が変わりました。
・東大和市の芋窪でも何らかの変更があったのかもしれません。残念ですが、江戸時代の芋窪村の資料がなくて調べ切れていません。天王様は明治3年(1870)11月の書上げでは、現在と同じ、豊鹿島神社の摂社「住吉社・八雲社」になっています。
最初は石川の里の丘にまつられた
芋窪の天王様は最初、村山貯水池に沈んだ石川の里にまつられました。
石川の里は狭山丘陵が刻んだ峰々の谷ッに古代から形成されました。天王様はその小高い丘から村人や田畑を見守るように社殿が設けられました。
この地に生まれ、住吉神社の氏子であった乙幡六太郎氏は
「字・石川・第二千二百三十二番地の丘上にあり、左は土ヶ窪、右は南ヶ谷を見おろす。祠は南に面して立ち、茅葺き、板張り・・・」と記しています。創立年代などは不明です。
村山貯水池建設関係の写真で見ると、松林がある小高い峰の見晴らしの良い場所でした。すぐ近くに「雷明神」の碑があり、「いかずちやま」と呼ばれていたようです。
この住吉・八雲神社=天王様と石川の里の位置関係は武蔵村山市岸の須賀神社(遙拝所)と奥の院・奥社との位置関係とよく似ています。
石川にあった天王様は大正時代のはじめ村山貯水池の建設により芋窪四丁目に移転しました。その状況は「旧住吉神社と御嶽神社」に書きました。なお、「雷明神」の碑は新しい社殿の左側にまつられています。
神様のいわれ(古事記と日本書紀)
芋窪の天王様は悪疫や病気を防ぎ、天候や水利を安定させ、豊作をもたらす神として村人達に崇敬されました。社殿には、住吉神社と八雲神社がまつられています。祭神は次の神々です。
・住吉神社 底筒男命(そこつつおのみこと)
中津和多津見命(なかつわたつみのみこと)
上津和多津見命(うわつわたつみのみこと)
・八雲神社 素盞雄命(すさのうのみこと)
この神様は関係がとても深く、古事記と日本書紀に次のように伝えられます。長くなりますがお付き合い下さい。
古事記
「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)は天の浮橋に立って淡路之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま)をはじめとして、次々に島を生み、大八島国(おおやしまくに)を生み出されます。
引き続き様々な神様を生み、伊邪那美命が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ時、大やけどを負い、出雲国(いずものくに)と伯伎国(ほうきのくに)との堺の比婆の山(黄泉国・よみのくに)に葬られます。
伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとあとを追います。しかし、女神の姿はすっかり変わり、八種の雷神が鳴り響き、1500人の軍勢を引き連れて尊に迫ります。やむなく、尊は引き返し、御身の禊ぎ(みそぎ)をしようと、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊ぎ祓(はら)えを行います。
その際、水の底にもぐって身を洗い清めるときに底筒之男命(そこつつのおのみこと)、瀬の中ほどで中筒之男命(なかつつのおのみこと)、水の上で上筒之男命(うわつつのおのみこと)がそれぞれお生まれになりました。この三柱の神が墨江(すみのえ・住吉神社)の三大神です。
さらに、左の御眼を洗われると天照大神(あまてらすおおみかみ)、右の御眼を洗われると月読命(つくよみのみこと)、御鼻を洗うと、建速須佐之男命(たけはやすさのうのみこと)がお生まれになりました。そして、天照大神に高天原(たかまがはら)、月読命に夜の世界、建速須佐之男命には海原を治めなさいと云われました。」
『次田真幸 全訳注 古事記』(講談社学術文庫)を参考としました。(p55~71)
日本書紀
もう一つの日本書紀の伝えです。
「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は協力して大八州国(おおやしまのくに)を生み出されました。続いて、多くの神々をお生みになった後、火の神軻遇突智(かぐつち)の神が生まれるとき、その母伊弉冉尊は身を焼かれておかくれになりました。
伊弉諾尊は伊弉冉尊を追いかけて黄泉(よみ)の国まで行って話し合われました。イザナミノミコトは「私の寝姿を見ないでください」と云われたのに、イザナギノミコトはこっそり覗いてしまいます。そこには膿(うみ)がながれ、ウジがが湧いていました。
イザナギノミコトは逃げ帰ります。イザナミノミコトは「どうして、約束を守らずに、私に恥をかかせるのです」と云って冥界(めいかい)の鬼女8人をして追いかけさせます。
イザナギノミコトはその道を塞ぎ、ようよう帰られました。そして、悔いながら、筑紫(つくし)の日向(ひむか)の川の落ち口の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)に行かれて、「私の体の汚れたところを洗い流そう」と云われ、禊(みそ)ぎはらいをされました。
水の底にもぐってすすいで生まれた神が底筒之男命(そこつつおのみこと)。潮の中にもぐってすすいだ時に生まれた神が中筒之男命(なかつつおのみこと)。また潮の上に浮いてすすいで、生まれた神が上筒之男命(うわつつおのみこと)でした。
それから後、左の眼を洗われると、天照大神(あまてらすおおみかみ)、右の眼を洗われると、月読尊(つくよみのみこと)、鼻を洗われると、素戔嗚尊(すさのうのみこと)がお生まれになりました。
そして、イザナギノミコトは天照大神に高天原(たかまがはら)、月読尊に青海原の潮流、素戔嗚尊に天下を治めなさいと託されました。
『宇治谷 孟(つとむ) 日本書紀上』(講談社学術文庫)を参考としました。(p26~30)
どの神様も水に関係する神々です。狭山丘陵の谷ッに形成された石川の里の自然環境、天候、水利の安定を祈り作物の豊作を願ったのだと思われます。
そして、日本書紀では素戔嗚尊(すさのうのみこと)は天下を治めるように託されています。農作物の豊かな実り、日々の生活の充足、地域の安定、さらに疫病の防止、病魔の退治を祈願したと思われます。
素盞雄命(すさのうのみこと)と牛頭天王(ごずてんのう)
芋窪の天王様の由来です。なぜ天王様なのでしょうか?
日本には神道と仏教があります。かっては、村人の日常生活の中に神棚と仏壇があって常日頃お祈りました。神と仏が近くにありました。
そして、この神々は、いろいろな仏様が化身となって、それぞれの姿で現れるのだとの考えがありました。権現様(ごんげんさま)と呼ばれます。「熊野大権現」(蔵敷・熊野神社)、尉殿大権現(じょうどのだいごんげん・高木神社)のように、神社に神と仏を一緒におまつりしていました。
明治維新の時です。時の政府から神仏分離令(慶応4年・1868)にが出されました。東大和市域の村人も「御一新に付き、神仏混淆(こんこう) 相成らない旨の御布告」を受け、神社から神様と仏様を分ける作業をしました(『里正日誌』10p406)。以来、各神社は現在の呼び名になりました。
東村山市の八坂神社は「武蔵野天王宮」「野口村の牛頭天王さま」「祇園社」と呼ばれ、素戔嗚尊と牛頭天王が共にお祈りの対象となっていました。それが、素戔嗚尊と牛頭天王を分離して、素戔嗚尊を祭神として「八坂神社」となったと伝えます。その歴史を物語るかのように、八坂神社の社殿には「武蔵野牛頭天王」額、旧社殿であった奉額殿には「祇園社」額が掲げられています。
牛頭天王について、八坂神社のパンフレットは次のように説明しています。
「牛頭天王(ごずてんのう)
牛頭天王とはインドの祇園精舎の守護神といわれます。牛頭天王はインド北方九相国の神で、素盞嗚尊(すさのうのみこと)とインドの牛頭天王との事跡に、似ていらっしゃることから習合されたと伝えられます。京都の「八坂神社」に祭られています。愛知県の「津島神社」にも古くからこの神の信仰が深くひきつがれています。」
芋窪の天王様は八雲神社をまつっています。八雲神社は素戔嗚尊と牛頭天王を祭神とするところが多いです。素戔嗚尊と牛頭天王は暴れ神と同時に、逆に強力にそれを防ぎ平安をもたらす神、地域を守る神として信じられてきました。医療に乏しかった村人にとって、疫病は命取りで何より恐ろしく、退治を真剣に願ったと思われます。素戔嗚尊は牛頭天王で、芋窪では「天王様」として頼りにされたのではないでしょうか。
治水と疫病退治
さらに、芋窪の天王様にまつられる住吉神社の神々は海運、航海、商売の神として崇拝されます。石川の里にまつられたのは、集落の最も奥から流れ出る石川の水源と併せて水田経営のため最優先された溜池の安定を祈願したのだと思います。
芋窪の天王様はこうして、穏やか自然現象、治水のもとに作物の豊かなみのり、悪疫、病魔を防ぐ力強い守り神として、村人達に頼られてきました。
新たに社殿が建立されました。そのとき、新コロナウイルスの蔓延が世界的に厳しい状況を生んでいます。まさに素戔嗚尊と牛頭天王にお出ましを願い、疫病を退治して頂きたく手を合わせます。
なお、東大和市に伝わる民間行事の一つとして「天王さま」の日がありました。『東大和市史資料編』9では
「天王さま(七月十五日)
天王さまといって、その日はご馳走を作る。奈良橋の八幡様では祈願祭の神事を神社の役員が出席して行い、あと直会(なおらい)を今もやっている。」(p107)
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“天王様の神々,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1571.