工場の疎開

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東大和市内の疎開図.jpg

タイトル (Title)

工場の疎開

詳細 (Description)

 昭和19年(1944)6月、米軍がサイパン島に上陸、日本の戦局は一挙に悪化します。アメリカ軍の直接攻撃を受けるようになりました。11月24日、中島飛行機、武藏製作所がB29の爆撃を受けました。12月には軍部から、工場の疎開命令が出されました。その時の工場は次の図に近いものであったと思われます。

 昭和20年(1945)当時、実際に稼働していた工場、昭和25年(1950)完成を目指していた全体図です。変電所前に東大和市が設置している説明版に詳しく掲載されています。なお、米軍が撮影した昭和22年(1947)航空写真からは昭和20年当時の様子がたどれます。

日立航空機は工場の一部を疎開
日立航空機では次表のように疎開計画をたて実行に入ります。
工場での作業内容は東大和市史資料編1に、次のように記されています。(概要)
(1)林間工場
 日立航空機の正門の西側(現在の佼成霊園の敷地)のナラやクヌギの雑木林を開いて林間工場を建設した。その工場は、約一五㍍~一六㍍×五四㍍×五五㍍の建物六棟程度を建設する計画だった。屋根は厚紙にコールタールを塗った程度のもので、まわりはバラックのような、粗末な建物のようだったが、床や基礎はしっかりしたコンクリートで、大型の旋盤機械などをすえ付けてもだいじょうぶだった。
(2)大和工場
 庚申塚工場とも言われ、高木三丁目に六六〇平方㍍(約二〇〇坪)の工場が五棟あり、塩釜神社前に二棟あった。一棟に約一〇〇人の工員が働いていた。小さな部品を作っていて、女子が多かった。
 防空頭布も肌身離さず持っていた。・・・給料は日給八五銭で他の従業員と変わらなかった。いつ爆撃を受けるかわからないので、水道事務所の東志木街道に寄った辺りの山の中に、いっしょうけんめい防空壕を掘った。雨が降ると水がたまって使えないこともあった。通勤者はすべて弁当持参。
(3)飯能工場
 飯能町清明小学校の全校舎を借りてエンジンの組立工場とした。六〇人で働きに行った。一号ができる直前終戦となった。大和村から自転車で箱根ケ崎へ、飯能駅から歩いて一五分位の所にあった。通うのが大変で後に寝泊まりするようになった。
(4)横田トンネル工場
 山口貯水池工事のとき使われた、資材運搬用軌道の第四、第五燧道も疎開工場として転用された。爆撃を受ける前の年の夏、秘密裡に旋盤が運びこまれた。飛行機にいちばん使われた三ミリボルトとナットを作る機械だった。(p89~90)
東大和市内の疎開場所
 現在ではそれぞれ開発が進み、状況が変化していますが、疎開した場所は図の通りです。

Item Relations

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Citation

“工場の疎開,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1542.