専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)
タイトル (Title)
専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)
詳細 (Description)
現在の西武拝島線、そのうちの小川駅から玉川上水駅までの間が出来たときの話です。日立航空機(株)立川工場への専用引き込み線が基になっています。
東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ移ってから間もない昭和14年(1939)9月3日、第2次欧州大戦が勃発しました。翌、昭和15年(1940)9月27日、日独伊三国同盟が締結されるなどの中で、日立航空機(株)は生産力を高め、月産250基の軍用機エンジンの生産高をあげるようになりました。
昭和16年(1941)12月8日、第二次世界大戦(太平洋戦争)が開戦されました。航空発動機はさらに増産を迫られ、日立航空機(株)もその対応に追われます。課題の一つが運送手段の確保でした。当時の大和村は、貯水池建設に伴って設けられた、現在の西武多摩湖線の前身である「武蔵野鉄道多摩湖線」以外には全く鉄道がありませんでした。
日立航空機の工場への資材、製品の運送は最寄り駅まで全てトラックによる陸送に頼っていました。立川駅が多く使用されましたが、陸送は限度があり、工員の通勤にも影響していました。
日立航空機(株)は鉄道の確保を計画したようです。残された文書(西武鉄道関係文書)には、「陸軍当局の命令により、立川工場の生産力を拡充することになり、・・・」との文言がありますが、背景には、増産体制が求められたことをきっかけに、新たな輸送交通手段の確保を働きかけたことが伺えます。
(1)西武鉄道㈱との協定
昭和17(1942)年10月7日、日立航空機㈱は専用鉄道設置の申請をしました。小川停車場(北多摩郡小平村)から分岐して、日立航空機立川発動機製作所(北多摩郡大和村を経て砂川村地内)に至る専用鉄道の敷設です。
「陸軍当局の命令により、立川工場の生産力を拡充することになり、工場は省線立川駅より東北約6粁、大和村の交通は極めて不便で、昭和13年工場建設以来物資の輸送は専ら自動車によってきたが、近年益々輸送物資が激増し、逆に輸送機関は統制されて減少してきている。(東大和交通史研究の会『西武鉄道拝島線』)
今回軍下命に係る生産力拡充計画を実施するのに際し、その建設資材は膨大な数量となり、その後における生産力拡充資材並びに製品等の輸送は到底自動車のみでは果たしえず、軍の要求に応ずるためには是非とも専用引込み線を敷設する必要がある」。となっています。
これについて、昭和17年9月29日陸軍航空本部長も「会社願出の通り本引込線敷設は陸軍用航空機生産能力拡充上絶対必要なるものたること証明す」と言っています。
この専用鉄道に関し日立航空機㈱は西武鉄道㈱と昭和17年10月1日協定を結びました。その主なものは、
1、西武鉄道㈱
土地測量、敷設に必要な設計、認可申請及び関連する一切の手続き、通信その他連絡施設の施行、運転管理
2、日立航空機㈱
必要な土地の買収、敷設に必要な資材の手配準備及び指定される場所への提供、敷設並に連絡施設に要する建設費その他関連する一切の費用」
と記録しています。(p9~11)
日時のずれは申請に要する事前行動との関係と思われます。この申請に対して、免許が交付され、工事が施工されました。
(2)工事と運行
・昭和18(1943)年8月6日、免許下付
動力 蒸気
西武鉄道川越線小川停車場より分岐
立川工場貨物扱場(北多摩郡大和村を経て砂川村地内=現・玉川上水駅)
延長4粁520㍍、建設費90万円
・昭和19(1944)年2月14日「立川工場専用鉄道敷設工事中橋梁仮設許可願」
・昭和19(1944)年4月21日、運輸省による竣功検査
竣工検査の報告書
「竣功線路は北多摩郡小平村字小川に於ける小川停車場(同停車場中心起点換算粁程0粁00米)より砂川村に於ける「立川工場貨物扱場」(小川停車場中心起点換算粁程4粁350米)に至る、延長4粁350米にして地勢平坦工事も亦容易なり。本区間線路は概ね竣功を告げ、車輌其他の運輸設備も完成せり。
右線路の工事概要は(別紙)工事方法概要書及諸表の如し、機関車(27頓タンク)に客車4両及び貨車4両(内1両緩急車)を連結し、所定の速度にて本区間を走りせしめたるに線路車輌及其他の設備共異常なく安全に運転せり。依って本区間使用開始の件支障なしと認む」
・昭和19(1944)年5月1日、開通・運用開始
走った車両は、
・西武鉄道㈱の蒸気機関車と運輸通信省(国鉄)の貨車
・日立航空機㈱が購入した蒸気機関車1両、中古のガソリン客車2両でした。
現在の東大和市駅から青梅街道、向原方面です。右の木立ちの所には瘡守稲荷がまつられています。
左側の小屋は線路が青梅街道と平面交差していたため、手旗信号の職員の詰め所です。
『東大和のよもやまばなし』は
「昭和十八年の頃、工場への資材運搬のため会社が今の玉川上水駅、上り線の所から国分寺まで単線で引込線をつくりました。この引込線完成の日、初運転を迎えてブラスバンドが「軍艦マーチ」で歓迎しました。」と伝えます。(p106)
駅は「立川工場貨物扱場」で、現在の玉川上水駅の位置にありました。青梅橋駅はありませんでした。しかし、工員や工場関係者の一時的な乗降場所があったと記憶している方も居られます。
東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ移ってから間もない昭和14年(1939)9月3日、第2次欧州大戦が勃発しました。翌、昭和15年(1940)9月27日、日独伊三国同盟が締結されるなどの中で、日立航空機(株)は生産力を高め、月産250基の軍用機エンジンの生産高をあげるようになりました。
昭和16年(1941)12月8日、第二次世界大戦(太平洋戦争)が開戦されました。航空発動機はさらに増産を迫られ、日立航空機(株)もその対応に追われます。課題の一つが運送手段の確保でした。当時の大和村は、貯水池建設に伴って設けられた、現在の西武多摩湖線の前身である「武蔵野鉄道多摩湖線」以外には全く鉄道がありませんでした。
日立航空機の工場への資材、製品の運送は最寄り駅まで全てトラックによる陸送に頼っていました。立川駅が多く使用されましたが、陸送は限度があり、工員の通勤にも影響していました。
日立航空機(株)は鉄道の確保を計画したようです。残された文書(西武鉄道関係文書)には、「陸軍当局の命令により、立川工場の生産力を拡充することになり、・・・」との文言がありますが、背景には、増産体制が求められたことをきっかけに、新たな輸送交通手段の確保を働きかけたことが伺えます。
(1)西武鉄道㈱との協定
昭和17(1942)年10月7日、日立航空機㈱は専用鉄道設置の申請をしました。小川停車場(北多摩郡小平村)から分岐して、日立航空機立川発動機製作所(北多摩郡大和村を経て砂川村地内)に至る専用鉄道の敷設です。
「陸軍当局の命令により、立川工場の生産力を拡充することになり、工場は省線立川駅より東北約6粁、大和村の交通は極めて不便で、昭和13年工場建設以来物資の輸送は専ら自動車によってきたが、近年益々輸送物資が激増し、逆に輸送機関は統制されて減少してきている。(東大和交通史研究の会『西武鉄道拝島線』)
今回軍下命に係る生産力拡充計画を実施するのに際し、その建設資材は膨大な数量となり、その後における生産力拡充資材並びに製品等の輸送は到底自動車のみでは果たしえず、軍の要求に応ずるためには是非とも専用引込み線を敷設する必要がある」。となっています。
これについて、昭和17年9月29日陸軍航空本部長も「会社願出の通り本引込線敷設は陸軍用航空機生産能力拡充上絶対必要なるものたること証明す」と言っています。
この専用鉄道に関し日立航空機㈱は西武鉄道㈱と昭和17年10月1日協定を結びました。その主なものは、
1、西武鉄道㈱
土地測量、敷設に必要な設計、認可申請及び関連する一切の手続き、通信その他連絡施設の施行、運転管理
2、日立航空機㈱
必要な土地の買収、敷設に必要な資材の手配準備及び指定される場所への提供、敷設並に連絡施設に要する建設費その他関連する一切の費用」
と記録しています。(p9~11)
日時のずれは申請に要する事前行動との関係と思われます。この申請に対して、免許が交付され、工事が施工されました。
(2)工事と運行
・昭和18(1943)年8月6日、免許下付
動力 蒸気
西武鉄道川越線小川停車場より分岐
立川工場貨物扱場(北多摩郡大和村を経て砂川村地内=現・玉川上水駅)
延長4粁520㍍、建設費90万円
・昭和19(1944)年2月14日「立川工場専用鉄道敷設工事中橋梁仮設許可願」
・昭和19(1944)年4月21日、運輸省による竣功検査
竣工検査の報告書
「竣功線路は北多摩郡小平村字小川に於ける小川停車場(同停車場中心起点換算粁程0粁00米)より砂川村に於ける「立川工場貨物扱場」(小川停車場中心起点換算粁程4粁350米)に至る、延長4粁350米にして地勢平坦工事も亦容易なり。本区間線路は概ね竣功を告げ、車輌其他の運輸設備も完成せり。
右線路の工事概要は(別紙)工事方法概要書及諸表の如し、機関車(27頓タンク)に客車4両及び貨車4両(内1両緩急車)を連結し、所定の速度にて本区間を走りせしめたるに線路車輌及其他の設備共異常なく安全に運転せり。依って本区間使用開始の件支障なしと認む」
・昭和19(1944)年5月1日、開通・運用開始
走った車両は、
・西武鉄道㈱の蒸気機関車と運輸通信省(国鉄)の貨車
・日立航空機㈱が購入した蒸気機関車1両、中古のガソリン客車2両でした。
現在の東大和市駅から青梅街道、向原方面です。右の木立ちの所には瘡守稲荷がまつられています。
左側の小屋は線路が青梅街道と平面交差していたため、手旗信号の職員の詰め所です。
『東大和のよもやまばなし』は
「昭和十八年の頃、工場への資材運搬のため会社が今の玉川上水駅、上り線の所から国分寺まで単線で引込線をつくりました。この引込線完成の日、初運転を迎えてブラスバンドが「軍艦マーチ」で歓迎しました。」と伝えます。(p106)
駅は「立川工場貨物扱場」で、現在の玉川上水駅の位置にありました。青梅橋駅はありませんでした。しかし、工員や工場関係者の一時的な乗降場所があったと記憶している方も居られます。
Item Relations
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Collection
Citation
“専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部),” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/items/show/1541.