明治の小学校1
タイトル (Title)
明治の小学校1
詳細 (Description)
東大和市に最初の小学校がつくられたのはいつ? どこに? どんな様子で?
知りたいです。
残念ですが確実な資料が残されていません。
明治8年(1875)11月の卒業証書を見ることができました。
研精学校(けんせいがっこう)という学校があることがわかります。
神奈川県平民とありますが、学校の位置は紛れもなく「清水村」です。
これを手がかりに、記録を寄せ集めて追ってみます
最初の学校は いつ どこに?
明治5年(1872)8月、新政府は「学制頒布」(がくせいはんぷ)をしました。これを機に、全国的に小学校が義務化され、校舎造りが始まったとされます。ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。蔵敷村の有力者・内野杢左衛門氏の記録(杢翁記録)に次のように書き残されています。
「明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、神奈川県から「従来の筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止、師匠は試験の上、小学舎の教師になれ」と達せられた。
当時、村々の間では相談して、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めていたが、まだ着手していなかったので、その計画を直ちに止め、次のように校舎を置いた。」
文章は煩雑なので表にします。
記述からすると、神奈川県からの強い通達によって、学校の設置は明治6年(1873)2月以後になされ、場所は神社か寺院、旧寺子屋の跡であったことがわかります。
先生は神官や僧侶、寺子屋の師匠が当たっています。研精学舎の内堀太一郎は郷学校の卒業生、後藤兵庫は神官でした。校舎を新設したり、教員を招く余裕はなかったことがわかります。
当時の村々は狭山丘陵の南麓、村山道、志木街道に沿って形成されていました。南面はかっての武蔵野の原野で人家はなく、一面の畑でした。村山貯水池はまだ建設されていなくて、そこには、狭山丘陵が形成した細長い谷ッに、古くからの村が営まれていました。
貧しい村々で、最初は7つの村で、小学校2校が予定されました。しかし、なかなか建設が進まなかったようです。その時に、小学校教育の義務化が通達されました。教育熱心だったのでしょう、村人達は「我が村へ、我が村へ」の要求が高まり、予定された2校では折り合いが付かなかったようです。結果として、5校が開設されています。運営は村人たちの寄付と奉仕で行われました。
開設当時は「学舎」でしたが、最初に紹介した卒業証書から、明治8年(1875)には「学校」になったことがわかります。
明治の学校制度は次から次へと変わります。
明治9年(1876)7月、神奈川県からの通達により、一つの村に小学校一校を置く場合は校名に村名をつけることになりました。
・芋窪、蔵敷、奈良橋村は村名通りとしました。
・高木村と後ヶ谷村では二つの村で「竭力学舎(かつりき)」、宅部村(現在の村山貯水池に沈んだ)と清水村の二村で「研精学舎(けんせい)」が設立されていました。この取り扱いには困ったものと思われます。
ちょうど、学校の統合が進められていたこともあってか、明治10年(1877)2月に、 二校を統合し 「高狭学校」(たかさ)としました。背景には、明治8年(1875)6月4日、後ヶ谷村と宅部村が合併し「狭山村」となったことが考えられます。高木村と狭山村の名をとっています。
そして、現在の村山貯水池に沈んだ地域にあった研精学舎は廃止されました。宅部村の全児童と清水村の一部の児童は狭山丘陵の一峰を超えて通学せざるをえなくなりました。清水村では自分たちの村名がつきません。この地域の村人には、様々な決断を迫られたものと推測されます。
学校統合の動きはさらに続き、明治10年(1877)9月、芋窪、蔵敷村間で芋窪学校、蔵敷学校を統合し、昇隆学校を新設することが決まりました。現在の「生活センター」の場所です。工費は1千443円43銭、明治12年(1879)6月5日開校されました。経費はどのように捻出したのか気になります。
また、寺子屋の頃から周辺の子弟を集めて、太子堂で熱心に教育を進めていた蔵敷村に学校がなくなりました。村人達には複雑な思いがあったものと推測されます。
明治26年(1893)4月1日、それまで神奈川県に属していた三多摩が東京府に変わりました。これを機に校名変更が行われ、明治27年(1894)12月5日、昇隆学校、奈良橋学校、高狭学校にそれぞれ第一から第三に至る尋常小学校名がつけられました。
知りたいです。
残念ですが確実な資料が残されていません。
明治8年(1875)11月の卒業証書を見ることができました。
研精学校(けんせいがっこう)という学校があることがわかります。
神奈川県平民とありますが、学校の位置は紛れもなく「清水村」です。
これを手がかりに、記録を寄せ集めて追ってみます
最初の学校は いつ どこに?
明治5年(1872)8月、新政府は「学制頒布」(がくせいはんぷ)をしました。これを機に、全国的に小学校が義務化され、校舎造りが始まったとされます。ところが、東大和市周辺では、そうはいかなかったようです。蔵敷村の有力者・内野杢左衛門氏の記録(杢翁記録)に次のように書き残されています。
「明治五年八月、学制が御頒布された。同六年二月、神奈川県から「従来の筆学所(寺子屋、手習い)は一切廃止、師匠は試験の上、小学舎の教師になれ」と達せられた。
当時、村々の間では相談して、芋窪・蔵敷・奈良橋に小学舎一校を設け、高木・後ケ谷・宅部・清水の四か村に一校と決めていたが、まだ着手していなかったので、その計画を直ちに止め、次のように校舎を置いた。」
文章は煩雑なので表にします。
記述からすると、神奈川県からの強い通達によって、学校の設置は明治6年(1873)2月以後になされ、場所は神社か寺院、旧寺子屋の跡であったことがわかります。
先生は神官や僧侶、寺子屋の師匠が当たっています。研精学舎の内堀太一郎は郷学校の卒業生、後藤兵庫は神官でした。校舎を新設したり、教員を招く余裕はなかったことがわかります。
当時の村々は狭山丘陵の南麓、村山道、志木街道に沿って形成されていました。南面はかっての武蔵野の原野で人家はなく、一面の畑でした。村山貯水池はまだ建設されていなくて、そこには、狭山丘陵が形成した細長い谷ッに、古くからの村が営まれていました。
貧しい村々で、最初は7つの村で、小学校2校が予定されました。しかし、なかなか建設が進まなかったようです。その時に、小学校教育の義務化が通達されました。教育熱心だったのでしょう、村人達は「我が村へ、我が村へ」の要求が高まり、予定された2校では折り合いが付かなかったようです。結果として、5校が開設されています。運営は村人たちの寄付と奉仕で行われました。
開設当時は「学舎」でしたが、最初に紹介した卒業証書から、明治8年(1875)には「学校」になったことがわかります。
明治の学校制度は次から次へと変わります。
明治9年(1876)7月、神奈川県からの通達により、一つの村に小学校一校を置く場合は校名に村名をつけることになりました。
・芋窪、蔵敷、奈良橋村は村名通りとしました。
・高木村と後ヶ谷村では二つの村で「竭力学舎(かつりき)」、宅部村(現在の村山貯水池に沈んだ)と清水村の二村で「研精学舎(けんせい)」が設立されていました。この取り扱いには困ったものと思われます。
ちょうど、学校の統合が進められていたこともあってか、明治10年(1877)2月に、 二校を統合し 「高狭学校」(たかさ)としました。背景には、明治8年(1875)6月4日、後ヶ谷村と宅部村が合併し「狭山村」となったことが考えられます。高木村と狭山村の名をとっています。
そして、現在の村山貯水池に沈んだ地域にあった研精学舎は廃止されました。宅部村の全児童と清水村の一部の児童は狭山丘陵の一峰を超えて通学せざるをえなくなりました。清水村では自分たちの村名がつきません。この地域の村人には、様々な決断を迫られたものと推測されます。
学校統合の動きはさらに続き、明治10年(1877)9月、芋窪、蔵敷村間で芋窪学校、蔵敷学校を統合し、昇隆学校を新設することが決まりました。現在の「生活センター」の場所です。工費は1千443円43銭、明治12年(1879)6月5日開校されました。経費はどのように捻出したのか気になります。
また、寺子屋の頃から周辺の子弟を集めて、太子堂で熱心に教育を進めていた蔵敷村に学校がなくなりました。村人達には複雑な思いがあったものと推測されます。
明治26年(1893)4月1日、それまで神奈川県に属していた三多摩が東京府に変わりました。これを機に校名変更が行われ、明治27年(1894)12月5日、昇隆学校、奈良橋学校、高狭学校にそれぞれ第一から第三に至る尋常小学校名がつけられました。
Item Relations
This item has no relations.
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Citation
“明治の小学校1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/53.