7.奈良橋村に入村してきた千葉卓三郎と鎌田家
タイトル (Title)
7.奈良橋村に入村してきた千葉卓三郎と鎌田家
詳細 (Description)
明治14年、奈良橋村の鎌田喜三郎家には、もう一人刺激的な人物が入り込んでいた。西多摩郡の五日市にいた千葉卓三郎である。公立の小学校「勧能学校」の教師であった千葉は、五日市からさほど遠くない同郡 深沢村の深沢名生・権八親子に世話になりながら、五日市地域の自由民権運動の理論的指導者としての役割を果たしていたが、五日市の運動の限界をみてとったのだろうか、あるいは彼自身の生来の放浪癖がまたでてきたのだろうか、決別の書のようなものを深沢宛に残して、五日市を去る。そして今度は五日市街道などでむすばれている奈良橋村の鎌田家に入り込み、そこで新しい出会いを経験するのである。
そのころ奈良橋付近の鎌田家には、20歳の喜三を頭に喜十郎、弥十郎の三兄弟がいたが、なかでも長男の喜三は早くから学問への関心が高く、15歳の時に親の反対を押し切って東京に留学し、中村正直が主宰する同人社で英学と漢書を学び、さらに明治法律学校で法律を修めてきたという経歴の持ち主であった。村の中でももっとも開明的な青年の一人であっただろう。新しい知識と時代の空気をいち早く察知して行動に移した村の青年であった。当然ながら、東大和地域の自由民権運動の新しい担い手となる。
彼の履歴書によれば、その後は自由党員になり、明治17年の自由党大阪大会 (自由党の解党大会にもなる)には、三多摩自由民権運動の最高指導者ともいわれる南多摩郡の石阪昌孝とともに、神奈川県の総代として出席している。また条約改正反対建白書の捧呈委員や、明治22年には神奈川県会議員にも選出されている。
千葉卓三郎が五日市から奈良橋村に入り込んできたときには、おそらく鎌田は東京から帰郷していたのだろう。五日市の民権運動の昂揚とその水準をそのまま持ち込んだ千葉と、家にもどったばかりの鎌田は急速に親しくなり、内野の動きと歩調をあわすかのように新しい民権のうねりを作り出したのであった。千葉の滞在期間は明治14年の7月から9月か10月ころと推定されるので、約3、4か月と短い期間だが、千葉にとっては五日市の仲間とともに情熱をもって取り組んでいた「五日市憲法草案」(正式名は「日本帝国憲法」)起草時期とちょうど重なる時期になる。
明治藩閥政府に先駆けて私擬(しぎ)憲法の起草が、全国の民権運動の中で取り組まれていたが、それに呼応して草案作りに動き出したのが千葉が指導者となって展開していた五日市自由民権運動であった。通称「五日市憲法」といわれているこの憲法は、人民の権利規定に主眼がおかれ、他の憲法草案と比較しても民主主義的な憲法草案の一つであることが証明されている。その起草の中心的な人物が起草の渦中に奈良橋に入り込んできたのである。
狭山村円乗院での自由懇親会の時も、千葉から五日市のかつての仲間の深沢権八に都合がついたら是非参加してくれとのメッセージが届けられていた。千葉を通して、五日市の民権家との交流が始まっていたのである。この時の千葉の演説草稿が残されているが、「諸君よ、我々は今日此の自由懇親会を該地に開かんと欲し、新聞紙に広告し、又檄(げき)を有志の紳士に送った」ところ、「陸続来会せられし」とあるように、運動は狭い村や町、さらには郡まで越えて広まっていることがわかる。千葉はさらにこの会を開いた趣旨にふれ「自由の理明かならざれば民権起らず、民権起こらざれば自治の気象振はざるなり、自治の気象振はざれば知識いずくんぞ進むを得んや」と述べ、「国会を開き、立法の大権を人民の手に掌握」できるようになるために、こうして懇親会を開いているのだと主張している。寺の本堂を借りての小さな懇親会だが、目的は国会の開設にあることを明言しているのである。それに、千葉自身がすでにこの地域の運動の中核的存在になっていることもわかる。
さらに演説会は、同14年11月に奈良橋小学校で開催されている。「村山郷」といわれている地域16か村の有志者が集まって申し合わせ事項などを協議し、今後の継続的な活動について検討している。この中には埼玉県入間郡からの参加もあり、県を越えての民権交流が行われるようになっていた。所沢で開催の演説会の案内状が届けられるようになるのもこのころからである。
そのころ奈良橋付近の鎌田家には、20歳の喜三を頭に喜十郎、弥十郎の三兄弟がいたが、なかでも長男の喜三は早くから学問への関心が高く、15歳の時に親の反対を押し切って東京に留学し、中村正直が主宰する同人社で英学と漢書を学び、さらに明治法律学校で法律を修めてきたという経歴の持ち主であった。村の中でももっとも開明的な青年の一人であっただろう。新しい知識と時代の空気をいち早く察知して行動に移した村の青年であった。当然ながら、東大和地域の自由民権運動の新しい担い手となる。
彼の履歴書によれば、その後は自由党員になり、明治17年の自由党大阪大会 (自由党の解党大会にもなる)には、三多摩自由民権運動の最高指導者ともいわれる南多摩郡の石阪昌孝とともに、神奈川県の総代として出席している。また条約改正反対建白書の捧呈委員や、明治22年には神奈川県会議員にも選出されている。
千葉卓三郎が五日市から奈良橋村に入り込んできたときには、おそらく鎌田は東京から帰郷していたのだろう。五日市の民権運動の昂揚とその水準をそのまま持ち込んだ千葉と、家にもどったばかりの鎌田は急速に親しくなり、内野の動きと歩調をあわすかのように新しい民権のうねりを作り出したのであった。千葉の滞在期間は明治14年の7月から9月か10月ころと推定されるので、約3、4か月と短い期間だが、千葉にとっては五日市の仲間とともに情熱をもって取り組んでいた「五日市憲法草案」(正式名は「日本帝国憲法」)起草時期とちょうど重なる時期になる。
明治藩閥政府に先駆けて私擬(しぎ)憲法の起草が、全国の民権運動の中で取り組まれていたが、それに呼応して草案作りに動き出したのが千葉が指導者となって展開していた五日市自由民権運動であった。通称「五日市憲法」といわれているこの憲法は、人民の権利規定に主眼がおかれ、他の憲法草案と比較しても民主主義的な憲法草案の一つであることが証明されている。その起草の中心的な人物が起草の渦中に奈良橋に入り込んできたのである。
狭山村円乗院での自由懇親会の時も、千葉から五日市のかつての仲間の深沢権八に都合がついたら是非参加してくれとのメッセージが届けられていた。千葉を通して、五日市の民権家との交流が始まっていたのである。この時の千葉の演説草稿が残されているが、「諸君よ、我々は今日此の自由懇親会を該地に開かんと欲し、新聞紙に広告し、又檄(げき)を有志の紳士に送った」ところ、「陸続来会せられし」とあるように、運動は狭い村や町、さらには郡まで越えて広まっていることがわかる。千葉はさらにこの会を開いた趣旨にふれ「自由の理明かならざれば民権起らず、民権起こらざれば自治の気象振はざるなり、自治の気象振はざれば知識いずくんぞ進むを得んや」と述べ、「国会を開き、立法の大権を人民の手に掌握」できるようになるために、こうして懇親会を開いているのだと主張している。寺の本堂を借りての小さな懇親会だが、目的は国会の開設にあることを明言しているのである。それに、千葉自身がすでにこの地域の運動の中核的存在になっていることもわかる。
さらに演説会は、同14年11月に奈良橋小学校で開催されている。「村山郷」といわれている地域16か村の有志者が集まって申し合わせ事項などを協議し、今後の継続的な活動について検討している。この中には埼玉県入間郡からの参加もあり、県を越えての民権交流が行われるようになっていた。所沢で開催の演説会の案内状が届けられるようになるのもこのころからである。
制作者 (Creator)
東大和デジタルアーカイブ研究会
発行者 (Publisher)
東大和デジタルアーカイブ研究会
日付 (Date)
2019/05/04
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
東大和デジタルアーカイブ研究会, “7.奈良橋村に入村してきた千葉卓三郎と鎌田家,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/20.