昭和10年代の大和村
タイトル (Title)
昭和10年代の大和村
詳細 (Description)
昭和2年(1927)、村山貯水池が完成しました。丁度、金融恐慌にぶつかり、引き続いて、昭和5年(1930)世界恐慌が訪れます。
大和村は、旧村の移転という痛手を被り、ようよう新地域に落ち着いた時でした。
(画像:村山貯水池移転模式図)
その頃の村の姿をよく表す文書があります。
昭和11年(1936)8月「大和村教化経済更生計画実施概況」です。
カタカナを平仮名にし、一部を省略して箇条にして紹介します。
・食糧の大半は所沢、立川町より購入し、
・養蚕は生繭(せいけん)のまま立川町集繭所に搬出して大部分取引される。
乾繭(かんけん)するものは稀である。
・甘藷も、又、同町に搬出する。
・小麦は各地より仲買の扱う所となる。
・機業(はたおり)は古から村山絣(むらやまかすり)発生の地として知られ、
・全盛期には近郷を含み年産百万反を超過するような全盛であったが、
・文化の進歩にともない需要が衰退して焦慮の結果、現在の村山大島紬(つむぎ)と変遷した。しかし、
・永続する財界の不況は繭価を惨落させ、一般産業に大恐慌を来し、失業者続出し、
村内の経営事情は言語に絶し、真に暗憺たる状態を現出している。
・これに加えて大正の初年、東京市において村山貯水池計画を定め、
・田地約三百町歩買収したため、農村唯一の土地が減少して、生産力の原動力を失い、
いいよ苦境の極に沈淪(ちんりん)(沈んだ、身を落とす、落ちぶれる)したとき、
・大正九年、起工と同時に人夫賃の流入を得て、一時的小康状況に復したが、
・各地各地よりの労働移入者の放恣(ほうし かって気まま、だらしない)の風が
浸潤瀰満(しんじゅんびまん はびこり ひろまり)して、
・竣工と同時に夢想に引惑されたように荘然として正業しにくく、
いたずらに、都会の人々が散策するのを見て都会を羨望して、
青年男女は郷土を去り、村の将来転寒心に堪へざりき。
以上。
出典 『大和町史』p462 昭和十一年八月「大和村教化経済更生計画実施概況」
生繭(せいけん 蚕がつくったままの繭。煮たり、乾燥したりの手間をかけない、さなぎが中にいる)
乾繭(かんけん 蛾になる、カビが生えるのを防ぐため、とれた繭を煮て乾燥させる)
昭和8年(1933)、大和村は「農村経済更生指定村」に指定され、苦難の道を歩み始めました。翌、
昭和9年(1934)には、大和村負債整理委員会を設け、各部落に負債整理組合を設立して負債の解消に努めます。
農産物価格が安く、購入品が高いため、農民は負債を重ねた。それが積もって生活を一層困窮させた。
その整理のため、負債者が組合を作り、 政府の融資と自己努力によって負債を整理する方式とされます。
失業対策のため土木事業が組まれています。
同じ時期
昭和9年(1934)には、東京市長牛塚虎太郎氏が、市長退職金1万円を日本の桜復興のため東京市に寄付
服部時計店の服部金太郎氏遺族が、桜苗木1万本を東京市に寄贈(『東大和市史』p307)。
昭和10年に下貯水池畔に植えられる。(『東大和市史資料編』2p193)
として、やがて見事な「村山貯水池の桜」に成長します。
(画像:この時の村の姿です。昭和13年(1938)の大和村図が残されています。)
現在の玉川上水、東大和駅周辺までの全地域が桑畑で表示されています。
このようなとき、南部の一角に大きな工場群を建設する申請がありました。
東京ガス電気工業(株)です。
大和村は、旧村の移転という痛手を被り、ようよう新地域に落ち着いた時でした。
(画像:村山貯水池移転模式図)
その頃の村の姿をよく表す文書があります。
昭和11年(1936)8月「大和村教化経済更生計画実施概況」です。
カタカナを平仮名にし、一部を省略して箇条にして紹介します。
・食糧の大半は所沢、立川町より購入し、
・養蚕は生繭(せいけん)のまま立川町集繭所に搬出して大部分取引される。
乾繭(かんけん)するものは稀である。
・甘藷も、又、同町に搬出する。
・小麦は各地より仲買の扱う所となる。
・機業(はたおり)は古から村山絣(むらやまかすり)発生の地として知られ、
・全盛期には近郷を含み年産百万反を超過するような全盛であったが、
・文化の進歩にともない需要が衰退して焦慮の結果、現在の村山大島紬(つむぎ)と変遷した。しかし、
・永続する財界の不況は繭価を惨落させ、一般産業に大恐慌を来し、失業者続出し、
村内の経営事情は言語に絶し、真に暗憺たる状態を現出している。
・これに加えて大正の初年、東京市において村山貯水池計画を定め、
・田地約三百町歩買収したため、農村唯一の土地が減少して、生産力の原動力を失い、
いいよ苦境の極に沈淪(ちんりん)(沈んだ、身を落とす、落ちぶれる)したとき、
・大正九年、起工と同時に人夫賃の流入を得て、一時的小康状況に復したが、
・各地各地よりの労働移入者の放恣(ほうし かって気まま、だらしない)の風が
浸潤瀰満(しんじゅんびまん はびこり ひろまり)して、
・竣工と同時に夢想に引惑されたように荘然として正業しにくく、
いたずらに、都会の人々が散策するのを見て都会を羨望して、
青年男女は郷土を去り、村の将来転寒心に堪へざりき。
以上。
出典 『大和町史』p462 昭和十一年八月「大和村教化経済更生計画実施概況」
生繭(せいけん 蚕がつくったままの繭。煮たり、乾燥したりの手間をかけない、さなぎが中にいる)
乾繭(かんけん 蛾になる、カビが生えるのを防ぐため、とれた繭を煮て乾燥させる)
昭和8年(1933)、大和村は「農村経済更生指定村」に指定され、苦難の道を歩み始めました。翌、
昭和9年(1934)には、大和村負債整理委員会を設け、各部落に負債整理組合を設立して負債の解消に努めます。
農産物価格が安く、購入品が高いため、農民は負債を重ねた。それが積もって生活を一層困窮させた。
その整理のため、負債者が組合を作り、 政府の融資と自己努力によって負債を整理する方式とされます。
失業対策のため土木事業が組まれています。
同じ時期
昭和9年(1934)には、東京市長牛塚虎太郎氏が、市長退職金1万円を日本の桜復興のため東京市に寄付
服部時計店の服部金太郎氏遺族が、桜苗木1万本を東京市に寄贈(『東大和市史』p307)。
昭和10年に下貯水池畔に植えられる。(『東大和市史資料編』2p193)
として、やがて見事な「村山貯水池の桜」に成長します。
(画像:この時の村の姿です。昭和13年(1938)の大和村図が残されています。)
現在の玉川上水、東大和駅周辺までの全地域が桑畑で表示されています。
このようなとき、南部の一角に大きな工場群を建設する申請がありました。
東京ガス電気工業(株)です。
Item Relations
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Citation
“昭和10年代の大和村,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1795.