大まかな歴史の流れ 昭和時代2

1桑畑の場所に工場建設の動きが起こった.jpg
2昭和13年当時の飛行場、航空機関連工場の状況.jpg
3立川工場拡張計画図.jpg
4工場の全体の大きさがわかる解説板.jpg
5解説板の日立航空機(株)工場全域図.jpg
6殉国慰霊塔.jpg
7日立航空機(株)専用鉄道経路.jpg
8爆撃を受けた時の弾痕が残る給水塔.jpg
9弾痕の残る変電所跡.jpg
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タイトル (Title)

大まかな歴史の流れ 昭和時代2

詳細 (Description)

 東京ガス電気工業(株)の立地
 大和村が経済的疲弊から立ち直り、懸命な再建策を模索していたとき、村の南端に工場立地の話題が浮上しました。
 昭和12(1937)から昭和13年(1938)にかけて、
 当時、大森にあった東京ガス電気工業(株)の進出です。
 その背景には、周辺へのいくつもの飛行場、航空機関連工場の定着、拡大がありました。
 村は懸命に対応します。
 工場と福利施設の一帯建設
 建設に当たって、工場は大きな特色を発揮しました。
 工場と住宅・福利施設のそろっての配置です。
 現在の桜街道を中心に南側に工場群、北側に社宅、寮、福利施設を分けて建設しました。
『東大和市史』は地域社会計画として次のように記しています。
「・総坪数十万坪 ・工場五万坪・福祉地区五万坪
 ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 
 ○映画館 ○幼稚園 ○共同浴場 ○スポーツ施設
・給水 給水塔から工場・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
・社宅 社員は一戸建・浴室付、工員は二戸建(日立になって四軒長屋に変更)
・住宅総数 五五四戸
・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮」(p338~339)
工事はよほど急がれたらしく、「昼夜兼行で突貫工事」と
『東大和のよもやまばなし』の「娘っこに化けた狐」に書かれています。
こうしてできた工場群と新たな住民、狭山丘陵の麓の旧村、村人は
・生産基盤(農業と工業)
・生活様式(農家 対 社宅、井戸と水道・・・)
を別にするだけに、当初はなじめず、しかし、時がたつにつれ、それぞれ
・「本村」(ほんそん)と「南街(みなみまち)」と呼び合って交流し、
・一部の村人は工場で働きました。
そこに、大きな変化が起きました。
軍需工場化
 昭和14年(1939)5月15日、東京瓦斯電気工業(株)は(株)日立製作所と合併しました。
 そして、子会社の日立航空機(株)を設立しました。軍需工場化でした。
 合併の理由は国策によるとされます。
・工場は日立航空機(株)の中で、最大規模の軍用機の発動機生産工場と位置づけられ、
・生産品は昭和飛行機(株)、立川飛行機(株)へ納入されました。
・工場規模は大きく拡大されました。
・半面、工員の住居は二戸建てが禁止、四戸建てとなりました。ハモニカ長屋の名前が付きました。
・物品配給所、共同浴場、診療所がつくられました。
・田無警察署所管の駐在所がつくられました。
・昭和14年(1939)9月1日、第2次世界大戦の開始、
・昭和15年(1940)9月27日、日独伊三国同盟が締結されるなどの中で、
・日立航空機(株)は生産力を高め、
・月産250基の軍用機エンジンの生産高をあげるようになりました。
・そして、昭和16年(1941)12月8日、第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入しました。
・全国から徴用工が集められました。
・青年学校には、全国からの生徒3000人が在籍したとされます。
 講義、実習、作業の5年間です。
・東京周辺からは旧制中学校の生徒が学徒動員により従事しました。
変電所跡に、工場の全体の大きさがわかる解説板があります。
東大和市駅周辺に若干空白がありますが、玉川上水駅周辺まで工場の建物で埋まっています。
村人の戦争体験
 一方、村人は折からの戦争に巻き込まれ、苦々しい時代を過ごします。
・昭和16年(1941)3月4日、国際情勢が緊迫化する中、大政翼賛会大和村支部が発足しました。
 「万民翼賛一億一心、職分奉公の国民組織を確立し、
  その運用を円滑ならしめ・・・」と趣旨が記されています。(『東大和市史資料編』1p48)
・4月1日、米の配給制、みそ、しょう油の統制が始まります。
・12月13日には、日米開戦に伴い「大東亜戦争戦捷祈念村民大会」が開かれました。
・翌、昭和17年(1942)2月1日、衣料総合切符制が開始、
 マッチ、せっけん、タバコに至るまで、日用品のほとんどが配給制となりました。
・また、「隣組」が大政翼賛会の下部組織となりました。
・この年、防空訓練を5回、一般家庭の防空施設の一斉検査を実施しています。
 戦争が次第に緊迫する昭和18年(1943)です。
・防空強化日を制定し、防空警報用サイレン吹鳴試験4回、
 防空教育訓練、総合防空訓練を実施します。
 戦局は悪化してきました。
・昭和19年(1944)4月、疎開者収用建物実態調査が実施されました。
 東京近郊の農村として、空襲される恐れのある地域の人々を受け入れる態勢作りです。
・9月、赤坂国民学校の児童が蓮花寺に集団疎開して来ました。
 以後、疎開生活は1年3ヶ月に及びました。
・灯火管制訓練、家庭待避所(防空壕)、防空設備の強化、軍官民連合防空訓練の実施など
 本土空襲に備えての訓練が強化されました。
 昭和20年(1945)です。
 ・3月5日、大和村防空委員制度が制定されました。
  空襲によって引き起こされる危害を防ぎ、被害を少しでも少なくしようとする仕組みです。
 ・一例ですが、5月16日、高木の鎌田泰三郎家に大和村地下救護施設が作られることになりました。
  各部落から毎日1名づつシャベル持参で出勤することになりました。
 ・5月25日、大和村常会に、村長を隊長とする「国民義勇隊」の組織が指令されました。
 ◎このような中で、8月20日、終戦の日を迎えます。
殉国慰霊塔
 ・多くの方がこの戦争で亡くなりました。奈良橋・日月山の麓に殉国慰霊塔が建てられ、
  日清戦争から第二次大戦までの戦没軍人軍属278柱の霊がまつられています。
  昭和37年(1962)3月21日、除幕式が行われました。
専用鉄道の設置
 日立航空機(株)に戻ります。
 航空発動機はさらに増産を迫られ、課題の一つが運送手段の確保でした。
 資材、製品の運送は最寄り駅まで全てトラックによる陸送に頼っていました。
 立川駅が多く使用されましたが、陸送は限度があり、工員の通勤にも影響していました。
 日立航空機(株)は鉄道の確保を計画しました。
・昭和17(1942)年10月7日、専用鉄道設置の申請
・昭和18(1943)年8月6日、免許、
・昭和19(1944)年5月1日、開通・運用開始となりました。
 西武鉄道川越線小川停車場より分岐して、立川工場貨物扱場(=現・玉川上水駅)に達する鉄道です。
・青梅橋駅はありませんでした。
 ただし、工員や工場関係者の一時的な乗降場所があったと記憶している方も居られます。
・現在の西武拝島線の前身となりました。
・軍需工場は生産の増量を求められました。
・昭和19年(1944)9月、工場の従事者は13,896人となっています。
 しかし、この盛況は一変しました。
 爆撃により壊滅
 軍用機エンジンを制作する工場は、米軍の攻撃対象となりました。
 昭和20年(1945)次のように空襲、爆撃をうけました。
①2月17日午前10時20分、60機編隊、立川飛行機(株)砂川工場を銃撃
 午前10時20分~30分、30機編隊、日立航空機立川発動機製作所爆撃と機銃掃射
 死者約78名。
②4月19日、P51戦闘機50機、B29を3機同伴。 
 日立航空機立川発動機製作所にはP51戦闘機が機銃掃射 死者6名
③4月24日、B29(101機)によって日立航空機立川工場が爆撃を受けた。
 工場壊滅状況。27名が死亡。 
 
以上の3回の爆撃を受けて、
・日立航空機(株)立川工場は壊滅状況になりました。
・操業は不能となりました。
終戦
昭和20年(1945)
・6月23日、沖縄戦終結
・8月1日~2日、八王子大空襲
・8月6日、広島に原爆投下、8月9日、長崎に原爆投下
・8月15日、正午、天皇のラジオ放送で、降伏発表。終戦。
・平和産業へと新しい途に踏み出します。
◎空爆を受けた跡の残る変電所が保存され、近くに、尊い命を奪われた方々の慰霊碑が建てられています。
 村も人々も共に新たな出発点に立ちます。
平和利用・平和産業
 昭和20年(1945)、米軍の爆撃によって壊滅状態までに破壊された日立航空機(株)は工場を閉鎖しました。
 社宅などは国に物納、工場用地の一部を西武鉄道(株)に売却しました。
 工場跡地には、村により平和産業の立地が誘導されました。
 図のような工場が活動を始めました。
 戦災から解き放たれた南街は、新たな工場群、商店舗、住宅地が一体となった地域として発展しました。

Item Relations

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“大まかな歴史の流れ 昭和時代2,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月25日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1791.