比翼塚と古文書
タイトル (Title)
比翼塚と古文書
詳細 (Description)
徳川家臣の来村
明治6年(1873)です。東大和市高木村の明楽寺の庫裡でおきた出来事を報ずる文書があります。
大まかには
仮神官宮嶋岩保の妻きよさんは、
・本年8月に夫が死亡し、物寂しく、時々逆上することもありますので、
・村内の子供を3人ずつを一緒に泊めさせておりました。
・宮鍋庄兵衛の長女まさ(13才)が通常のように戸締まりをして午後8時それぞれ寝所で眠りました。
・翌午前4時頃、苦痛の声がしますので、まさがきよさんに気分でも悪いのかと聞くと
・一言の答えもなく、驚いて隣家の徳五郎さんへ知らせ、一同が駆けつけてみると
・きよさんは床に伏し、出血がおびただしく、喉元に三寸ほどの傷があり、側に小刀が血に染まっています
・これは逆上自殺したようで、他に怪しい事はありません。
・変死として、とりあえず、お訴えします。
と意訳できそうです。
文書は以上です。「逆上」「変死」の報告ですが、村人達は違った視点から接します。『東大和のよもやまばなし』で、次のように伝えます。
「徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新政府となった明治二年、喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住みこみました。
そして、武士の名「鉄右衛門」から巌(岩保)に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み書きを教えていました。しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治六年八月十五日、病により帰らぬ人となりました。
たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったのです。その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎた十一月二十六日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。
その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命を絶ったということです。
後に、夫妻の冥福を祈るため、ゆかりの人々によって明楽寺の墓地に二つの塚が造られました。高さ七十センチメートルばかりの巌さんの塚と、その脇にひとまわり小さな喜与さんの塚が、つつましく寄りそうようにあります。(p211~212一部省略)
明治の新制と共に、旧幕府に仕えていた幕臣は身の振り方に苦労しています。徳川家達に従って新領地の駿府へ移住した人、帰順して幕府に仕えた人はともかく、武士を止めた人はそれぞれの方途で茨の道を開いたようです。その一人が高木村に来た宮嶋氏でした。
宮嶋さんは、産土様(うぶすなさま)の神官であり、寺子屋の師匠でした。村人が比翼塚を造って大事にしたことからも、村人に尊敬され、好意を持って接しられていたものと思われます。しかし、事件です。届け出る戸長、副戸長も宮嶋夫妻のことを知り尽くしている人々で、扱いには苦労したことが推測できます。「逆上」「変死」にせざるを得なかったのでしょう。
古文書の写しをもって塚の前に立ち、塚の文字とよもやまばなしを思い起こすとホッとします。同時に、「村からの届出書」と「村人達の気持ち」と「塚」の三つを通して理解しないと、その実情が正確には伝わらないとガツンと教えられます。
明治6年(1873)です。東大和市高木村の明楽寺の庫裡でおきた出来事を報ずる文書があります。
大まかには
仮神官宮嶋岩保の妻きよさんは、
・本年8月に夫が死亡し、物寂しく、時々逆上することもありますので、
・村内の子供を3人ずつを一緒に泊めさせておりました。
・宮鍋庄兵衛の長女まさ(13才)が通常のように戸締まりをして午後8時それぞれ寝所で眠りました。
・翌午前4時頃、苦痛の声がしますので、まさがきよさんに気分でも悪いのかと聞くと
・一言の答えもなく、驚いて隣家の徳五郎さんへ知らせ、一同が駆けつけてみると
・きよさんは床に伏し、出血がおびただしく、喉元に三寸ほどの傷があり、側に小刀が血に染まっています
・これは逆上自殺したようで、他に怪しい事はありません。
・変死として、とりあえず、お訴えします。
と意訳できそうです。
文書は以上です。「逆上」「変死」の報告ですが、村人達は違った視点から接します。『東大和のよもやまばなし』で、次のように伝えます。
「徳川幕府の終りのころ、宮嶋さんは江戸南町奉行遠山家ゆかりの武士でしたが、新政府となった明治二年、喜与さんを連れ、奉公人の里、高木村の明楽寺の庫裡に留守番として住みこみました。
そして、武士の名「鉄右衛門」から巌(岩保)に改め、かたわら寺子屋を開いて村人に読み書きを教えていました。しかし、この明楽寺に戸長役場が置かれた夏の明治六年八月十五日、病により帰らぬ人となりました。
たよる夫に先立たれ、なじみの浅い土地で喜与さんは一人とり残されてしまったのです。その後、しばらく戸長役場の用を手伝っていた喜与さんは、宮嶋さんの百ヵ日が過ぎた十一月二十六日、ひっそりと夫のもとに旅立っていきました。
その最後はさすがに元武士の妻、乱れぬようにひざをひもで縛り、短刀で命を絶ったということです。
後に、夫妻の冥福を祈るため、ゆかりの人々によって明楽寺の墓地に二つの塚が造られました。高さ七十センチメートルばかりの巌さんの塚と、その脇にひとまわり小さな喜与さんの塚が、つつましく寄りそうようにあります。(p211~212一部省略)
明治の新制と共に、旧幕府に仕えていた幕臣は身の振り方に苦労しています。徳川家達に従って新領地の駿府へ移住した人、帰順して幕府に仕えた人はともかく、武士を止めた人はそれぞれの方途で茨の道を開いたようです。その一人が高木村に来た宮嶋氏でした。
宮嶋さんは、産土様(うぶすなさま)の神官であり、寺子屋の師匠でした。村人が比翼塚を造って大事にしたことからも、村人に尊敬され、好意を持って接しられていたものと思われます。しかし、事件です。届け出る戸長、副戸長も宮嶋夫妻のことを知り尽くしている人々で、扱いには苦労したことが推測できます。「逆上」「変死」にせざるを得なかったのでしょう。
古文書の写しをもって塚の前に立ち、塚の文字とよもやまばなしを思い起こすとホッとします。同時に、「村からの届出書」と「村人達の気持ち」と「塚」の三つを通して理解しないと、その実情が正確には伝わらないとガツンと教えられます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“比翼塚と古文書,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1778.