大まかな歴史の流れ 地質

1『東大和市市史』『東大和市史資料編』.jpg
2マガキ・ヒメアサリ出土地.jpg
3東大和地盤沈下観測所(東京都施設).jpg
4東大和地盤沈下観測所説明板.jpg
5市立郷土博物館の展示.jpg
6東大和市域の狭山丘陵地質断面模式図.jpg
7狭山丘陵の多摩ローム_鹿島台に露出.jpg
8蔵敷_熊野神社社殿_横と奥に芋窪礫層が露頭.jpg
9古多摩川が運んできた芋窪礫層.jpg

タイトル (Title)

大まかな歴史の流れ 地質

詳細 (Description)

1東大和市は海の中にあった
「その話、本当なんですか?」
最初に返ってくる一言です。
村山貯水池の建設工事の時に発見されたマガキの写真の載る市の資料をお見せして、半信半疑のところへ、
「それも、一カ所じゃないんです。」
と、第一中学校の北側でヒメアサリの化石が発見されている資料を出します。ここで
「ということは、この地が遠浅の海だったってことですよね」
少し納得を得ます。
 東大和市は狭山丘陵とその前に広がる武蔵野台地で構成されています。現在、東大和地域では狭山丘陵の中に村山貯水池ができています。南に広がる武蔵野台地はほとんど住宅地になっています。このため、海の中についての実感はなかなか得がたいです。
幸い、ヒメアサリの出土地である第一中学校北側に東京都の施設「東大和地盤沈下観測所」があります。 ここに、どのようにしてこの地形が出来たのかについての丁寧な説明があります。
東大和地盤沈下観測所
第一中学校北側にある「東大和地盤沈下観測所」(東京都施設)ここで、地下調査のボーリング調査で様々な貝化石を発見しました。正面左側の案内板にその説明があります。
 今から約200 万年前から70 万年前までは、この辺りは浅い海でした。そして、西に広がる関東山地から川によって運ばれだ砂やれきが海に堆積し、東大和市の土台となる上総層群がつくられました。
  その後、この辺りは氷河の発達による海面の低下により陸化し、扇状地ができました。この扇状地を流れるかっての多摩川は度々流路を変え、扇状地面を削りながら、段丘面をつくりました。現在の武蔵野台地を形づくる段丘面はこのときできたものです。また、今の狭山丘陵はそのときに削り残された古い扇状地面の名残りです。
 段丘面には、かって多摩川が流れていたときに運ばれてきたれき(段丘れき層)が堆積しています。
 そのれき層の上に富士山などからの火山灰(関東ローム)が厚く降り積もり、現在の地形・地質ができたのです。」
と書かれています。

市立郷土博物館
 さらに、どのような順序で狭山丘陵と武蔵野台地が出来たのかを目で追うことが出来るのは市立郷土博物館の展示です。海から陸になって台地が形成される過程を図で説明しています。2 階、展示室に入ると右側に、『狭山丘陵の成り立ち』の掲示があります。簡潔に次のように説明されています。
 「今から50 ~ 60 万年前、東大和市の周辺は海の中でした。氷河期に入って海が徐々に陸化し、地面の隆起や火山灰の降り積もるうちにしっかりとした陸地になったと考えられています。

約10 万年前、狭山丘陵は同時代に形成された丘陵とまだ陸続きでした。

その後、青梅から放射状にのびるいくすじもの川の流れによって切り離されました。

その後、火山灰の堆積と川の浸食を繰り返しながらかたちづくられた武蔵野台地の中にとり
残された島のようになっているのです。」
2 箱根や八ヶ岳が噴火した時の灰が積もっている(多摩ローム)
 狭山丘陵の特徴の一つは上部の地層が多摩ロームと呼ばれる地層であることです。南の台地にはこの地層がなく、上部は武蔵野ローム、立川ロームで構成されています。
つまり、多摩ローム層は古多摩川が移動して行く過程で削り取られたことを示します。多摩ローム層の現物は芋窪の鹿島台で見ることが出来ます。
  多摩ロームは芋窪礫層の上に降り積もった火山灰が堆積したものとされます。一般に箱根火山、八ヶ岳などの火山噴出物の堆積とされます。しかし、この地層はまだまだ研究過程にあると云って良さそうです。
 それは、富士山の噴火を巡って新富士火山、古富士火山、小御岳火山、先小御岳火山と議論が沸き、様々な見解があり、今後に待たれることが多いからです。
3古い多摩川が運んだ石ころが残されている(芋窪礫層)
 多摩ロームの下にある地層は芋窪礫層と呼ばれます。古い多摩川が運んできた石ころです。現物は蔵敷の熊野神社社殿の付近で見ることが出来ます。
芋窪礫層について、東大和市史資料編は次のように説明します。
 「この礫層は、燈色や赤茶色をした独特の外観をしている。礫の種類は、砂岩、チャート、泥岩、閃緑岩などの火山起源の岩石などからなっている。礫の大きさは、一般に八~一五㌢ほどであるが、礫が風化してもろくなっているのが特徴である。チャートの礫を除くと、ハンマーやシャベルを使ってこの礫を簡単にけずることができる。 芋窪礫層は、狭山丘陵の上部に広く分布するが、東大和市の中部では丘陵と台地の境界付近にまで下りており、市の東端では地下へもぐっている。狭山丘陵ではおよそ八㍍の厚さである。」(東大和市史資料篇5p28) 地元の古老は、「イシグサレ=石腐」と呼び、「多摩川が運んできたとは知らなかった」と驚きの声を上げられます。

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Citation

“大まかな歴史の流れ 地質,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1658.