明楽時と明楽時墓地
タイトル (Title)
明楽時と明楽時墓地
詳細 (Description)
江戸時代、高木神社境内、現在の社務所のあるところに明楽寺という寺がありました。円乗院住職の隠居寺と云われます。高木神社(江戸時代の尉殿権現社)を別当として管理していました。明治の神仏分離令で廃止になりました。
地誌は次のように書き残します。
明楽寺
『新編武藏風土記稿』
別当明楽寺 社地の東にあり、高木山と号す、真義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、草創の始を伝えず、本堂四間四方南向、本尊不動木の立像一尺二寸を置り、
『狭山之栞』
高木山妙楽寺は新義真言宗上石紳井村亀頂山三寶寺の末派にして、本尊不動明王長一尺許の立像並に両童子及び地藏菩薩の立像長一尺二寸は方今地藏堂へ合併す。境内壱反弐畝歩の除地は奉還す。
地内銀杏の老木廻り一丈除なるありしが明治九年伐り、他の小なるもの廻り八尺程のもの尚存せり。
四間四方の本堂があり、本尊は不動明王で、両脇に童子を伴う長さ30センチほどの木製立像であったことがわかります。
江戸末期には寺子屋が開かれ明楽寺の住職が師匠となっていました。ここに、維新後、徳川藩士の宮嶋氏が住み、比翼塚の伝承を残しました。
明治6年(1873)から神奈川県第十一区第十番組の役場になりました。
明楽寺会所とも呼ばれ、その後、村役場となり、昭和15年(1940)、奈良橋(現・奈良橋市民センターの場所)へ移転するまで、この地域の行政の拠点になっていました。
明楽寺墓地
かってこの地にあった明楽寺(狭山の栞では妙楽寺)に付随する墓地です。
現在、明楽寺墓地と呼ばれます。
墓地左側 石仏群
左右 六地蔵尊(安政6年1855)
中央 六十六部供養塔 上部に金剛界大日如来坐像(宝暦4年1754)
奥右 法如上人像(文化9年1812)
奥左 大日如来座像(年号不明)
墓地右側 明楽寺歴代住職墓碑
画像では見えませんが、一段上の左奥に比翼塚があります。
地誌は次のように書き残します。
明楽寺
『新編武藏風土記稿』
別当明楽寺 社地の東にあり、高木山と号す、真義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、草創の始を伝えず、本堂四間四方南向、本尊不動木の立像一尺二寸を置り、
『狭山之栞』
高木山妙楽寺は新義真言宗上石紳井村亀頂山三寶寺の末派にして、本尊不動明王長一尺許の立像並に両童子及び地藏菩薩の立像長一尺二寸は方今地藏堂へ合併す。境内壱反弐畝歩の除地は奉還す。
地内銀杏の老木廻り一丈除なるありしが明治九年伐り、他の小なるもの廻り八尺程のもの尚存せり。
四間四方の本堂があり、本尊は不動明王で、両脇に童子を伴う長さ30センチほどの木製立像であったことがわかります。
江戸末期には寺子屋が開かれ明楽寺の住職が師匠となっていました。ここに、維新後、徳川藩士の宮嶋氏が住み、比翼塚の伝承を残しました。
明治6年(1873)から神奈川県第十一区第十番組の役場になりました。
明楽寺会所とも呼ばれ、その後、村役場となり、昭和15年(1940)、奈良橋(現・奈良橋市民センターの場所)へ移転するまで、この地域の行政の拠点になっていました。
明楽寺墓地
かってこの地にあった明楽寺(狭山の栞では妙楽寺)に付随する墓地です。
現在、明楽寺墓地と呼ばれます。
墓地左側 石仏群
左右 六地蔵尊(安政6年1855)
中央 六十六部供養塔 上部に金剛界大日如来坐像(宝暦4年1754)
奥右 法如上人像(文化9年1812)
奥左 大日如来座像(年号不明)
墓地右側 明楽寺歴代住職墓碑
画像では見えませんが、一段上の左奥に比翼塚があります。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“明楽時と明楽時墓地,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月25日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1613.