八幡神社1
タイトル (Title)
八幡神社1
詳細 (Description)
表参道から第二鳥居まで
所在地 東京都東大和市奈良橋1-256
祭 神 譽田別命(ほんだわけのみこと)他
創 建 不詳
境内社 石祠・大六天社、御嶽社、石祠・蚕影社、不明1、武内社、神明社、石祠・庖瘡神、石祠・富士浅間社
八幡神社は奈良橋地域の鎮守です。青梅街道から鎌倉街道と伝えられる旧道を北に進み、八幡谷戸にまつられています。
周辺は縄文時代の遺跡の宝庫です。
この道は村山貯水池が建設される以前は所沢を経て足利方面に通じていました。
かっては灯篭の立っている位置に、ご神木の樹齢約270年という杉の大木がありました。その根が本殿右脇に保存されています。
周辺はこんもりと雑木で覆われていました。右側に流れる斜面は「八幡谷ッ」を形成し、対する峰には雲性寺があります。谷間は山峡田になっていました。
急な石段を登ります。
石段を上がると途中に踊り場があります。その右側に大六天社の石祠、左側に御嶽神社がまつられています。
東大和市史資料編8(p42)では祠に昭和十三年(1938)の年号が刻まれているとします。
御嶽神社 祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
右側石碑 御嶽神社太々神楽奉奏記念碑(昭和11年・1936)
記念碑には、昭和11年(1936)、武蔵御嶽神社(青梅市)に、五穀豊穣を祈願して、奈良橋村の講中62名が大々神楽を奉奏した旨が彫られています。
石段を上りきると第一の鳥居があります。左側の欅の木の根元に「蚕影神」の石祠がまつられています。
東大和市域の各村は江戸時代から養蚕が盛んで、明治以降、昭和の中頃まで村の産業の中心を占めていました。新しい祠がまつられる前の碑には、養蚕農家の素朴な願いと感謝がこめられるかのように「蠶影神社」(こかげじんじゃ)と難しい字で彫られていました。
蚕影神社の欅を左に曲がると雑木林の先に多摩丘陵を遠望し、武蔵野台地に広がる東大和市の市街地が一望されます。
第一の鳥居をくぐると広い境内地に出て、長い参道が続きます。
左側に社務所、幼稚園、右側には縄文時代の「八幡谷戸遺跡」があります。
記念碑には奈良橋にあった「諏訪」「八坂」「厳島」三社を明治四十四年五月、八幡神社に合祀したなど貴重な経過が刻まれています。参道右側は東大和市縄文時代の代表的な遺跡「八幡谷戸遺跡」です。
東大和市史跡 八幡谷戸遺跡
所在 東大和市奈良橋一丁目二五七番地 指定昭和五十五年四月一日
この遺跡は、縄文時代中期の土器や石器などの遺物、竪穴住居跡が良好に保存されていることが、昭和五十三年度に実施した確認調査によって実証されている。
社殿裏側の山林は、遺物の遺存状態が希薄であるが、集落の一部である可能性が強い。集落の中心は社殿より前方(南方)一帯であり、東側から南側にかけての傾斜は遺物の包含が濃密で、その部分にかなり広く残る山林は、保存状態もきわめて良好で、市内では残り少ない貴重な遺跡である。
昭和五六年三月 東大和市教育委員会」
遺跡は範囲を広げ、本殿の地域に達しています。第二鳥居へ向かいます。
手水鉢は平成十三年(2001)十一月吉日に奉納されています。第二鳥居をくぐり、本殿へと進みます。
所在地 東京都東大和市奈良橋1-256
祭 神 譽田別命(ほんだわけのみこと)他
創 建 不詳
境内社 石祠・大六天社、御嶽社、石祠・蚕影社、不明1、武内社、神明社、石祠・庖瘡神、石祠・富士浅間社
八幡神社は奈良橋地域の鎮守です。青梅街道から鎌倉街道と伝えられる旧道を北に進み、八幡谷戸にまつられています。
周辺は縄文時代の遺跡の宝庫です。
この道は村山貯水池が建設される以前は所沢を経て足利方面に通じていました。
かっては灯篭の立っている位置に、ご神木の樹齢約270年という杉の大木がありました。その根が本殿右脇に保存されています。
周辺はこんもりと雑木で覆われていました。右側に流れる斜面は「八幡谷ッ」を形成し、対する峰には雲性寺があります。谷間は山峡田になっていました。
急な石段を登ります。
石段を上がると途中に踊り場があります。その右側に大六天社の石祠、左側に御嶽神社がまつられています。
東大和市史資料編8(p42)では祠に昭和十三年(1938)の年号が刻まれているとします。
御嶽神社 祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
右側石碑 御嶽神社太々神楽奉奏記念碑(昭和11年・1936)
記念碑には、昭和11年(1936)、武蔵御嶽神社(青梅市)に、五穀豊穣を祈願して、奈良橋村の講中62名が大々神楽を奉奏した旨が彫られています。
石段を上りきると第一の鳥居があります。左側の欅の木の根元に「蚕影神」の石祠がまつられています。
東大和市域の各村は江戸時代から養蚕が盛んで、明治以降、昭和の中頃まで村の産業の中心を占めていました。新しい祠がまつられる前の碑には、養蚕農家の素朴な願いと感謝がこめられるかのように「蠶影神社」(こかげじんじゃ)と難しい字で彫られていました。
蚕影神社の欅を左に曲がると雑木林の先に多摩丘陵を遠望し、武蔵野台地に広がる東大和市の市街地が一望されます。
第一の鳥居をくぐると広い境内地に出て、長い参道が続きます。
左側に社務所、幼稚園、右側には縄文時代の「八幡谷戸遺跡」があります。
記念碑には奈良橋にあった「諏訪」「八坂」「厳島」三社を明治四十四年五月、八幡神社に合祀したなど貴重な経過が刻まれています。参道右側は東大和市縄文時代の代表的な遺跡「八幡谷戸遺跡」です。
東大和市史跡 八幡谷戸遺跡
所在 東大和市奈良橋一丁目二五七番地 指定昭和五十五年四月一日
この遺跡は、縄文時代中期の土器や石器などの遺物、竪穴住居跡が良好に保存されていることが、昭和五十三年度に実施した確認調査によって実証されている。
社殿裏側の山林は、遺物の遺存状態が希薄であるが、集落の一部である可能性が強い。集落の中心は社殿より前方(南方)一帯であり、東側から南側にかけての傾斜は遺物の包含が濃密で、その部分にかなり広く残る山林は、保存状態もきわめて良好で、市内では残り少ない貴重な遺跡である。
昭和五六年三月 東大和市教育委員会」
遺跡は範囲を広げ、本殿の地域に達しています。第二鳥居へ向かいます。
手水鉢は平成十三年(2001)十一月吉日に奉納されています。第二鳥居をくぐり、本殿へと進みます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“八幡神社1,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月22日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1599.