奈良橋地域の神社
タイトル (Title)
奈良橋地域の神社
詳細 (Description)
奈良橋地域を歩くとお稲荷様や石造物が沢山目に入ります。しかし、一般の方がお参りするのは八幡神社です。八幡神社が唯一と言って良いようです。地元の方は「昔は諏訪山にも日月山にも神社があっただ」と言われます。それが、一社になったのはなぜなのでしょうか?
町名地番整理(昭和51年・1976)を実施する以前、奈良橋地域は下図の通り縦に長い地域を形成していました。
狭山丘陵の峰と南に広がる武蔵野の原野を新田開発し、野火止用水際まで達していました。
その峰々に、そして原に、江戸時代からの神まつりが行われました。社があったり、時には石の祠であったり、村人達はそれぞれに祈りを籠めたようです。
明治3年(1870)11月、村は韮山県庁に村内にある神社について報告しました。次のように、18の神がまつられていることが記録されています。
江戸末期から明治初年の奈良橋地域の神社
明治3年(1870)11月、奈良橋村から当時の韮山県に報告された神社です。(里正日誌 11 p232)神社名は報告書に記載された名称をそのまま紹介します。
八幡大神(旧八幡大菩薩)惣鎮守 祭神 誉田和気尊 勧請年記不詳 造営(村持 押本肇・修験・覚宝院)
本社 間口 4尺5寸 奥行 3尺 拝殿 間口 3間 奥行 2間3尺
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
日月神社 鎮守 祭神 天照皇大御神 月夜見命 勧請年記不詳 造営(神主持 押本愛麿・修験・大徳院)
本社 間口 1尺5寸 奥行 1尺8寸 上屋 間口 2間 奥行 2間
摂社 愛宕社 熊野社
末社 御嶽大神 御霊明神 稲荷社2社
摂社
諏訪大神
厳島大神
八坂大神
天王宮(雲性寺裏、雲性寺の山号となっている)
これらの神社が奈良橋地域の各地にまつられていました。八幡大神が惣鎮守(村持)で、日月神社が鎮守(神主持)と位置づけられています。 大きく二つのグループに分かれ、共通の摂社として「諏訪大神」「厳島大神」「八坂大神」があったと考えられます。
その江戸時代末、明治初の様子は当時の地誌が次のように記しています。
『新編武蔵風土記稿』
山神社 除地、三畝、南の畑中に在、わづかなる祠なり、
八幡宮 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、
山王社 除地、南の畑中にあり、以上の社鎮座の初は伝えず、いづれも村内の修験、覚寶院の持、
愛宕杜 除地、雲性寺の東にあり、わづかなる祠にて、上屋は九尺四方、ここも鎮座の初は伝えず、村内大徳院持、
日月宮 除地、六畝、わづかなる祠なり、
『狭山之栞』
八幡宮
日月神社 旧社地九畝歩。天照大神 月夜見尊を祭る。
神祠 山神、愛宕、日枝、八坂、諏訪
天王宮(雲性寺裏 雲性寺山号「天王山雲性寺観音院」)
天王宮は維新の際、門前にあった弁財天と共に諏訪山に移す
神まつりの場
村人達は自らの神まつりの場に地域名をつけました。八幡谷戸、諏訪前、日月前、山王、山の神・・・などです。町名地盤整理を実施するまでは小字名(こあざめい)として使われていました。
現在の奈良橋地域の神社
18所にまつられた神々は現在どのようになっているのでしょうか。八幡神社一社になっています。八幡神社では、本殿と境内に六つの社がまつられています。
六つの社は次の通りです。
神明宮
武内社
不明
御嶽大神(表参道石段の左側)
大六天(表参道石段の右側)
浅間神社(本殿裏)
八幡神社本殿
各地域にまつられていた神々は八幡神社の本殿内に合祀されています。その神々は次の通りです。(北多摩神社誌による八幡神社の祭神)
東殿
大山祇神社 大山祇神(おおやまずみのかみ)―→大山阿夫利神社 出羽三山神社
日月神社 天照坐皇大御神(あまてらすすめらおおかみ) 月読尊(つくよみのみこと)
八坂神社 素盞鳴命(すさのうのみこと)
中殿
八幡神社 誉田別之命(ほんだわけのみこと)
西殿
日枝神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
諏訪神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)
このようになった理由は、明治初年の神様と仏様の分離、村社制(一村一社)などの政策にありそうです。その経緯は明らかではありません。
奈良橋の地域を歩くと、今では社の形跡はありませんが、日月公園、日月橋、諏訪山橋・・・などかっての神社の名が残されています。 また、日月神社の旧址に石碑が立てられて、その位置を知ることが出来ます。 この地で村人が神まつりをしのだと、故地が偲ばれます。
町名地番整理(昭和51年・1976)を実施する以前、奈良橋地域は下図の通り縦に長い地域を形成していました。
狭山丘陵の峰と南に広がる武蔵野の原野を新田開発し、野火止用水際まで達していました。
その峰々に、そして原に、江戸時代からの神まつりが行われました。社があったり、時には石の祠であったり、村人達はそれぞれに祈りを籠めたようです。
明治3年(1870)11月、村は韮山県庁に村内にある神社について報告しました。次のように、18の神がまつられていることが記録されています。
江戸末期から明治初年の奈良橋地域の神社
明治3年(1870)11月、奈良橋村から当時の韮山県に報告された神社です。(里正日誌 11 p232)神社名は報告書に記載された名称をそのまま紹介します。
八幡大神(旧八幡大菩薩)惣鎮守 祭神 誉田和気尊 勧請年記不詳 造営(村持 押本肇・修験・覚宝院)
本社 間口 4尺5寸 奥行 3尺 拝殿 間口 3間 奥行 2間3尺
摂社 日枝大神 山神
末社 浅間大神 御嶽大神 神明宮 道祖神
日月神社 鎮守 祭神 天照皇大御神 月夜見命 勧請年記不詳 造営(神主持 押本愛麿・修験・大徳院)
本社 間口 1尺5寸 奥行 1尺8寸 上屋 間口 2間 奥行 2間
摂社 愛宕社 熊野社
末社 御嶽大神 御霊明神 稲荷社2社
摂社
諏訪大神
厳島大神
八坂大神
天王宮(雲性寺裏、雲性寺の山号となっている)
これらの神社が奈良橋地域の各地にまつられていました。八幡大神が惣鎮守(村持)で、日月神社が鎮守(神主持)と位置づけられています。 大きく二つのグループに分かれ、共通の摂社として「諏訪大神」「厳島大神」「八坂大神」があったと考えられます。
その江戸時代末、明治初の様子は当時の地誌が次のように記しています。
『新編武蔵風土記稿』
山神社 除地、三畝、南の畑中に在、わづかなる祠なり、
八幡宮 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、
山王社 除地、南の畑中にあり、以上の社鎮座の初は伝えず、いづれも村内の修験、覚寶院の持、
愛宕杜 除地、雲性寺の東にあり、わづかなる祠にて、上屋は九尺四方、ここも鎮座の初は伝えず、村内大徳院持、
日月宮 除地、六畝、わづかなる祠なり、
『狭山之栞』
八幡宮
日月神社 旧社地九畝歩。天照大神 月夜見尊を祭る。
神祠 山神、愛宕、日枝、八坂、諏訪
天王宮(雲性寺裏 雲性寺山号「天王山雲性寺観音院」)
天王宮は維新の際、門前にあった弁財天と共に諏訪山に移す
神まつりの場
村人達は自らの神まつりの場に地域名をつけました。八幡谷戸、諏訪前、日月前、山王、山の神・・・などです。町名地盤整理を実施するまでは小字名(こあざめい)として使われていました。
現在の奈良橋地域の神社
18所にまつられた神々は現在どのようになっているのでしょうか。八幡神社一社になっています。八幡神社では、本殿と境内に六つの社がまつられています。
六つの社は次の通りです。
神明宮
武内社
不明
御嶽大神(表参道石段の左側)
大六天(表参道石段の右側)
浅間神社(本殿裏)
八幡神社本殿
各地域にまつられていた神々は八幡神社の本殿内に合祀されています。その神々は次の通りです。(北多摩神社誌による八幡神社の祭神)
東殿
大山祇神社 大山祇神(おおやまずみのかみ)―→大山阿夫利神社 出羽三山神社
日月神社 天照坐皇大御神(あまてらすすめらおおかみ) 月読尊(つくよみのみこと)
八坂神社 素盞鳴命(すさのうのみこと)
中殿
八幡神社 誉田別之命(ほんだわけのみこと)
西殿
日枝神社 大山咋命(おおやまくいのみこと)
厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
諏訪神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)
このようになった理由は、明治初年の神様と仏様の分離、村社制(一村一社)などの政策にありそうです。その経緯は明らかではありません。
奈良橋の地域を歩くと、今では社の形跡はありませんが、日月公園、日月橋、諏訪山橋・・・などかっての神社の名が残されています。 また、日月神社の旧址に石碑が立てられて、その位置を知ることが出来ます。 この地で村人が神まつりをしのだと、故地が偲ばれます。
Item Relations
This item has no relations.
Collection
Citation
“奈良橋地域の神社,” 東大和デジタルアーカイブ, accessed 2024年11月23日, https://h-yamatoarchive.sakura.ne.jp/omeka/index.php/items/show/1598.