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子抱地蔵尊

1子抱地蔵尊.jpg
 奈良橋庚申塚墓地に子抱地蔵尊(こだきじぞうそん)があります。墓地入り口から右手数体の石造物がまつられれている中の一体です。
 文化4年(1807)、「女念仏講中」がまつりました。村山貯水池に沈んだ宅部(やけべ)・内堀地域の女衆です。
 左側面には「内堀村」と彫られています。
この時点では、同地域は「宅部村」でしたがあえて念仏衆は「内堀村」を彫り込みます。

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円乗院の宝篋印塔

1お釈迦様と宝篋印塔.jpg
 円乗院の鐘楼門をくぐり参道を直進するとお釈迦様の像と並んで右側に宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。この塔について、円乗院では次のように説明をしています。
「第三十四世法印兊重(文化 14年(1817 )8月 16日示寂)は、天下泰平万民和楽祈願並追善供養のために宝筐印塔の建立を発願したが、果たさず示寂したので後住の明舜法印(明治 4年(1871 )10月 11日示寂)が先住の志を承けて、総檀家中と念仏女講中の助力によって文政 4年(1821…

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おんじー!?

1大和町史研究10p71.jpg
 東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。
 地元の杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。
 寛政6年までは中核となる家族構成は4人から6人(年寄り夫婦、若夫婦、子ども)、以降、若干変動します。他市と比べても江戸時代普通の家族構成と云えるようです。
 ところが、天明2年(1782) から天保12年(1841)…

細長い村が出来た

2境界の入り組んだ縦に長い村々.jpg
玉川上水・野火止用水の開削
 承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、翌承応4年(1655)野火止用水が開削されました。茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が通りました。これを待ち受けていたように、翌年の明暦2年(1656)…

野火止用水が引かれるぞ!

1モニュメント・用水工夫.jpg
 それ!新しい畑の開発だ!!
 東大和の村々に慌ただしい空気が広がります。
玉川上水・野火止用水が出来る
「原の南っかたで、江戸へと上水がつくられるとよ」

玉川上水の開削の背景、ルートは?

1玉川上水が造られる前の江戸の水道.jpg
 玉川上水が身近にあるだけに、これだけのものが、何時、どのようにして造られたのか、知りたくなります。
1進む江戸の整備、水不足
 家康の関東入府後50年を経て、江戸の整備が進み、参勤交代制も定着、人口が増加して、飲料水が不足となりました。家康入府当時、江戸の上水は井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧き水を水源とする神田上水と赤坂の溜池用水によって賄われていました。その水量では飲み水をまかないきれない状況が生まれました。
2…

村に地頭がやってきた

1初期地頭・陣屋の配置図.jpg
 天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)は、当家の家譜を記す『代々のかがみ』に
 「当代、天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。…